ユーゴスラビア連邦の終焉
1974年のきわめて緩かなユーゴ連邦制は発足の時点から根本的な問題を抱えていた。
各共和国間の権利の平等は、他方で連邦中最大の人口比率を占めるセルビア人の
権限縮小を意味した。また、セルビア共和国内にある2つの自治州に共和国とほぼ同等の
権限が与えられたことから同共和国のコソボに及ぶ権限が、それだけ制限されることになり、
コソボに在住するセルビア人権利保護の問題が浮上する。共和国に大幅な自治が与えられた
とはいえ、それによって、ただちに共和国間の経済格差が是正されるわけでなく、むしろ、
格差が開くばかりであったことから後進地域の74年憲法下の連邦制に対する不満は解消
されるどころか、増幅されていった。こういった諸共和国および諸民族間の不満に加え、
1970年代末あたりから第二次石油ショックや世界的な経済不況の煽りをうけてユーゴ経済が
低迷する。さらに、連邦の統合力であり各共和国間の調停役であったチトーが1980年に
亡くなると、セルビア民族主義を掲げるミロシェヴィチが '87年にセルビア共和国幹部会議長に
就任。翌年に74年憲法が修正されると、セルビアは、'89年に、セルビア共和国憲法を改正。
コソボ諸権限の縮小に踏み切ったことは、コソボより〜ミロシェヴィチ大統領就任 で述べた。
低迷するユーゴ経済を立て直す為、連邦制の強化を求める声も高まってはいたが、反して、
自国の経済的自治権の縮小を恐れたスロヴェニア人が、コソボのアルバニア人についで
連邦制の強化に反対し始めた。そして、1990年1月、スロヴェニア共産党が、
ユーゴ連邦共産主義者同盟において連邦共産党からの脱退を宣言。
ここに、チトーと連邦統合の要であった共産主義者同盟は、その機能を停止する。
ところで、この頃は、ペレストロイカに始まる東欧革命が起きた時期である。
ユーゴの各共和国が東欧諸国にならい選挙戦に突入。選挙の結果、
セルビアとモンテネグロを除く諸共和国で、民族派諸政党が勝利を収めたため、
連邦の遠心化に更に拍車がかかることとなった。そして、1991年6月、
スロベニア及びクロアチアが独立を宣言するに及んで、70年以上続いた
ユーゴ連邦の歴史に幕が下ろされることになったのである。
「アメリカへなんか、来たくはなかった」・・とP
憧れて渡米した自分とは違う。銃社会で怖い、嫌だったのに、両親から、来なさい!!
と、無理やり連れてこられたという。
「夏は、アドリア海で泳ぐんだ。家から水着のまま、泳ぎに行くことができる」
Zadar (ザダール) の病院で生まれたP。 クロアチアは医療費無料、お産も同様、
Pも兄も無料で生まれたといっている。風光明媚、美しいアドリア海沿岸の小さな村で、
おいしいものを食べて、友達と遊んでいたかったのに・・・。
西ドイツ(当時)で、2年に一度開催されるエキシビションに、LadyMoonの両親は、
'70代後半から、'80年代初期にかけて、ずっと招待されていた。見学後、東欧へ向かう。
「ハンガリーではハングリーだった」。五つ星ホテルに滞在したにも関わらず、
出された食器には口紅がこびりついており、サービスは最悪。食べるものがなくて、
ひたすら空腹をこらえていたという。
「食べるものは豊富だった。チトーは決して、国民を飢えさせるようなことはしなかった。」
考えてみれは、人間、食べることほど基本的で大事なことはない。国民を空腹にしないことが、
上に立つ者・指導者としての条件である。国民を飢えさせた大日本帝国は、滅びた。
チトー死去後、ユーゴの火薬庫があちこちで爆発する。アメリカのニューズウィーク紙に
"チトーが力で国民を抑えつけていた″という記事が掲載されたという。
チトーのユーゴスラビア。真の"マルクス・レーニン主義″にのっとったユーゴ独自の社会主義は、
階級連帯を重視し、民族主義的要素を軽視したが、正当であったかどうかは別として、この後、
ユーゴに民族対立の内戦が続発することからみて、連邦を統合し、
人々を平和に導いたといえるのではないか? そして、
チトーが名指導者だったか、独裁者だったかは、チトー政権下で生きてきた
旧ユーゴスラビア国民のみぞ知ることである。
ALL画像提供:クロアチア政府観光局