ハラバツカとは、クロアチアのことである。JapanをNipponというのと同じ。

ニューヨーク・マンハッタンの住人となったのは、1999年3月。この頃、

テレビのスイッチをオンにすると、必ず “コソボ危機”のニュースが飛び込んできたものだ。

このコソボを含め、旧ユーゴスラビアは、それまで、遥か遠い国々でありました。

しかし、この約1年半後、母国日本よりも遥かに近い国となるのです。ところで、

この“コソボ危機”とは何であったか、これからHrvatskaを語るにあたり、

まず初めに振りかえってみることに致します。

  

コソボの戦い 1389年6月28日・コソボの戦い (P42) は、セルビア王国のラザル公

率いるバルカン連合軍と、ムラト1世率いるオスマン軍の戦いである。バルカン連合軍は、

ゼータのブランコヴィチ公とボスニア王のトブルトコ、そしてワラキアのミルチャ公。

戦場となったコソボ平原は、現在のコソボ自治州の中心プリシュティナの南。戦いは、

バルカン連合軍の敗北に終わり、この後、オスマン軍は、バルカン半島を北上していき、

オスマン帝国がバルカン半島を征服するきっかけとなった戦いでもある。ところで、

コソボは中世セルビア王国の中心地である。王国時代の遺跡やセルビア正教会の

修道院や美術品が数多く残されている為、セルビア人にとってコソボは揺籃の地という

意識が強く残っているのだ。また、コソボの戦いは、盲目の語り部が一弦琴を弓で奏でる

英雄叙事詩(平家物語に似ている)と共に、悲劇の歴史として神話化されたという。

1989年には、コソボの戦い600周年を記念し、ミロシェヴィチが、コソボ平原に

100万人(公式発表)を集め、記念集会を開催したのは記憶に新しい。

  

セルビア人の大移動  14世紀以降、コソボはオスマン帝国の支配下に置かれるが、

17世紀後半になって変化が生じる。ハプスブルグ皇帝の呼びかけがあり、政治・宗教等の

理由から、コソボ地方の多くのセルビア人が、セルビア正教総主教を先頭にドナウ川を越え、

ハプスブルグ帝国の「軍政国境地帯」に移住した。コソボの空白になった地域には、

ムスリムに改宗したアルバニア人が入植させられる。

セルビア人の大移動( P53 )  新天地を求めて。力強さを感じさせる歴史画です。

 

アルバニア人とセルビア人の地 19世紀後半になると、コソボはアルバニア人の

民族運動中心地となり、1878年には、南部の町プリズレンで、アルバニア人の自治を求める

プリズレン連盟が結成される。そして、第一次バルカン戦争の結果、コソボは、セルビアと

モンテネグロに分割される。独立を認められたアルバニアには組み込まれなかった。

第一次世界大戦後建国の南スラブの統一国家ユーゴスラビアにおいても、コソボは

マセドニアと同様 “南セルビア”と呼ばれ、セルビア化政策が進められて行く。

第二次世界大戦の時期には、コソボはイタリア保護下のアルバニアに併合される。この時は、

アルバニア人からセルビア人に対する虐殺が行われた。第二次世界大戦後には、コソボは、

ユーゴスラビアのセルビア共和国に属する自治州となった。1968年、コソボのアルバニア人は、

少数セルビア人が、政治・経済・社会において要職を独占していることに反発し、コソボの

共和国昇格・アルバニア人の権利拡大のため暴動を起こした。1980年、ユーゴスラビアの

チトー大統領死去。翌年、コソボのアルバニア人は、再び、共和国への昇格を求めて大規模な

デモを行う。この時のデモはユーゴに緩い連邦制が既にあったため、民族的抑圧に対してでなく、

経済的不満が原因だったという。しかし、セルビア共和国とコソボのアルバニア人との対立は、

80年代を通じて継続する。

 

 人口構成1991 ところで、コソボは現在、セルビア共和国に属する自治州である。

プリシュティナが州都で、アルバニア・マセドニア・モンテネグロと隣接している。

ユーゴスラビア連邦を構成するセルビア共和国には、もちろん、セルビア人が多いが、

コソボ自治州は例外だ。91年度の国勢調査によると、コソボの民族構成は、アルバニア人82%、

セルビア人10%、ムスリム人3%、ロマ2%、モンテネグロ人1%、etcだ。そして、

90年代後半には、アルバニア人が90%を占めるようになる。アルバニア人は、

セルビア南部・マセドニア西部・モンテネグロ東部・アルバニアに隣接する

ギリシャ北西部にも移住している。

 

ミロシェヴィチ大統領就任 大セルビア主義をうたうミロシェヴィチが

セルビアの大統領に就任すると、1989年の憲法改正により74年憲法で保障されていた

コソボ自治州の自治権を略奪。ミロシェヴィチのこの強硬姿勢は、この時、セルビア人に支持され、

自治権を奪われたアルバニア人勢力は、91年に“コソボ共和国”の独立を一方的に宣言すると共に、

92年には、コソボ民主同盟の指導者で作家のルゴヴァを大統領に選出した。ルゴヴァは、

非暴力主義を貫きながら、自治回復にセルビア当局と粘り強い交渉を続けたが進展せず、

1997年には、ミロシェヴィチがユーゴスラビア連邦の大統領に就任する。この頃より、

武力によるコソボ独立を求めるアルバニア系武装組織「コソボ解放軍」の活動が活発になり、

アルバニア系住民は「コソボ解放軍」を中心に結束、98年2月、セルビア治安部隊が

コソボ解放軍掃討作戦を開始すると、両者の間で激しい戦闘が展開された。ミロシェヴィチは、

セルビア治安部隊以外にユーゴ軍を派遣。アルバニア系住民掃討作戦を開始する。この時、

一万人をこえるアルバニア系住民が虐殺されたといわれる。国連はユーゴ側に、治安部隊を

徹退させるよう要求。しかし、ミロシェヴィチの強硬姿勢は変わらなかった。

国際社会は、この紛争に多大な関心を示し、政治的解決を目指そうとするのだが。

      

  

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バルカン史

参考書籍。バルカン諸国史について