コソボ危機  1999年3月。政治的解決は打ち切られ、国連安保理決議を経ずに、

NATO軍が、アメリカを中心とし、ミロシェヴィチ政権によるアルバニア人の人権抑圧に対する

“人道的介入”を理由として、激しい空爆を実施した。空爆は、78日間も続き、80万人を超える

アルバニア人難民が発生する。NATOは、和平受入れの最後通告として、力によって力を抑え

強引に和平に持ち込もうとした。そして、いったん和平案への調印とはなったが、ユーゴ側は、

NATO軍の駐留 という条件を拒んだため、再び、NATOによる空爆が行われ事態は泥沼化する。

それでも、6月初め、ミロシェヴィチが、日本も含めた主要8カ国(G8)の和平案を 受け入れ、

空爆は停止。国連の国際安全保障部隊(KFOR)が派遣され、セルビア治安部隊とユーゴ軍の

徹退で、 コソボ和平が成立した。国連コソボミッション(UNMIK)が設立され、住民の代表との

共同暫定行政機構が発足、復興作業が行われた。しかしながら、軍事力の行使は、

民族紛争を悪化させてしまったといえるようだ。和平後、今度は、アルバニア人から

セルビア人への報復活動が続き、20万人を超えるセルビア人とロマが難民となった。

さらに、アルバニア系武装勢力がセルビア本国に攻撃をしかける 事件も頻発している。

アルバニア人とセルビア人の関係は、ますます悪くなってしまった。

    

NYTimes on Mar.28,1999

    

ミロシェヴィチ政権崩壊 ミロシェヴィチ政権は、2000年10月に大統領が退陣し崩壊した。

独裁政権は国際的に孤立を深め、戦争で経済が疲弊したこともあっただろう。この年の選挙で、

DOS(セルビア民主野党連合)のコシュトニツァに大敗したものの、選挙のやり直しを主張。

国民の抗議行動が爆発し、大規模なストライキと連邦議会・国営テレビの占拠にまで発展した為、

ついに敗北を認めたようだ。コシュトニツァ新政権は民主化に向けて動き出し、国際社会への

復帰・協調姿勢を打ち出し、国連には新規加盟国として、2000年11月に承認された。

ミロシェヴィチは、2001年4月にユーゴ当局が逮捕。旧ユーゴ国際戦犯法廷に 引き渡され、

コソボに於ける人道に対する罪や集団虐殺などで起訴され、公判が行われていた。

そして、2006年3月、バルカン最後の強硬政権指導者といわれたミロシェヴィチは、

収監中の独房で、死亡した。

 

さて、その後のコソボは、どうなったのか?穏健派のコソボ民主同盟も含めてアルバニア人政党は、

すべて、コソボの独立を主張しているとのこと。コソボでは、2001年に、初の議会選挙が実施され、

2002年11月には、ルゴヴァを大統領に選出。内閣も承認され、暫定自治政府が成立した。

2004年10月、2度目の議会選挙が行われる。暫定政府の自治能力が試されたが、2006年1月、

ルゴヴァ大統領が病死してしまう。

 

昨年秋、江川Missionの際、宿泊した伊豆長岡温泉の宿で、BSが、危機から10年目のコソボを

放映していた。セルビア人がアルバニア人居住区を車で通過する時は、セルビア人であることを

知られないようそっと通過しなければならない。;引越しを余儀なくされた人もいる。アルバニア人は

ムスリム、セルビア人は、現在は、イースタンオーソドックス(東方正教会)だが、アルバニア人が、

地元の中世セルビア王国時代の教会を訪問して、司教からの説明に耳を傾けたり、美術品に

見入ったり、逆に、セルビア人がモスクを訪問し、ムスリムの建物や習慣に聞き入っていた。

・・お互い解りあおうとする人々が双方に存在する。こういった姿勢には、頭が下がる思いがすると

同時に、コソボの将来に明るいものを見た気がするのだが、根本的な問題の解決は、困難と

いえるようだ。

 

1999年春、アメリカは好景気に沸いていた。さあ、今日から出勤だ。カーストアイアン建築の

アパートメントを出ると、街ゆく人々は活気に溢れている。春の日差しは眩しく、

なんだかとっても嬉しかった。

 

自分も、かつてのオスマンやセルビア人のように、これからコソボを北上し、約1年半後、

クロアチアに到達することになるとは、この時、まったく、気づいてはいなかったのだった。

 

Split(スプリト)にて

  SplitDalmatia1

画像提供 : クロアチア政府観光局

 

 

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