SplitB 

 Split(スプリト)にて

 

 

 ユーゴスラビア独自の道

1950年から、自主管理社会主義建設に向けて動き始めていたユーゴは、

ジラスの粛清を例外として、その後、一貫して、民主化・自由化・分権化を進めていった。

52年の第6回党大会では、共産党の役割が指令を出すことから説得とイニシアティブを

発揮することへ修正されると同時に、党名も共産党から共産主義同盟へと改名され、

続く58年の第7回党大会では、党の積極的な役割さえ否定されたのである。

63年には憲法が改正されて、国名が"ユーゴスラビア連邦人民共和国″から

"ユーゴスラビア社会主義連邦共和国″へと改められ、65年には市場メカニズムが導入されて、

経済面での自由化と分権化が拡大された。さらに、翌年には、一連の自由化策に反対してきた

副大統領のランコヴィチが解任され、自由化にいっそう拍車がかかることになる。

他のバルカン諸国とは対照的に、ユーゴ人の出国・外国人の国内旅行の自由、西側の新聞や

出版物へのアクセス、国内の検閲規制の緩和などが進められていった。

 

外交面では、米ソ両陣営に加わらない第三勢力の結集に力が注がれ、

1961年には25カ国の首脳をベオグラードに招いて、第一回非同盟諸国首脳会議が開催された。

資本主義でもソ連の国家資本主義でもない独自の自主管理社会主義を行くと自称するユーゴは、

外交面においても、米ソ東西ブロックとは一線を画した非同盟外交に依りどころを求めるように

なっていったのである。また軍事面では、チェコ事件の69年に、全国民によるゲリラ戦法を

主体とした?全人民防衛戦略″が採用された。同戦略も「防衛の社会化」といわれるように

分権化という意味において、ユーゴの自主管理社会主義に一脈通じるものである。

 

しかし、こういった民主化および分権化政策は、ユーゴが抱える本質的な問題・民族問題の

顕在化を呼び覚ますこととなってしまう。ランコヴィチが解任されたことを受けて

1968年には、コソボ自治州のアルバニア人がセルビア人から不当な差別をうけているとして、

権利の拡大と共和国への昇格を要求して反乱を起こす。続いて、70年から71年にかけて、

クロアチア人がセルビア人から経済的搾取をうけているとして、外貨や税収入の配分の改善を

求めて立ち上がり、ユーゴ連邦からの分離とクロアチア主権国家の独立を要求した。

このクロアチアの春に対してチトーは、同共和国の指導者のみならず、セルビア、スロヴェニア、

その他の共和国のリベラル派民族主義者を一掃し、潜在的な民族主義的指導者を排除することで、

この危機を乗り越えた。と同時に、1974年に新憲法を採択して連邦のさらなる分権化を進め、

6共和国とコソボ及びヴォイヴォディナに憲法採択権・裁判権・警察権・経済主権などと共に

重要事項に関する実質的な拒否権なども与えて国家連合色を強化した。また、連邦幹部会は、

これら8組織おのおの一名の代表に、連邦国家元首を加えた9名で構成されることになり、

各代表はそれぞれ一票を有するものとされた。このように各共和国及び自治州の権限を

制度的に強化することで、諸民族の不満を解消しつつ他方で連邦国家元首たるチトーの調停力と、

共産主義同盟や連邦人民軍によって連邦の統合が測られることになっていった。

 

 

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