関所破りは磔ですよー
The one-night prison
関所破りは、死刑(磔)という厳刑に処せられている。
一、 間道を通って、関所を通らぬ者は、発見しだい、その場で磔。
二、 男に誘われて山越えした女は、「奴」という、磔から一等減の刑。
三、 関所破りを案内した者は、磔。
四、 関所破りとまでいかず、関役人の目をかすんで、コソコソ通った者
→ 重追放(男)・奴(女)
五、 口留番所を女を連れて、忍んで通ったことがわかれば、中追放。
磔 → 奴 → 遠島
罪一等減 罪一等減
*「奴」とは、終身刑。兵器を密売した者の妻女。男に誘因され、
往来なりがたい関所を微行し た者等が該当。牢獄内において、
浅黄染の綿服を給せられるのみ、何も身につけることは許されない。
みじめな扱いをうけたといわれる。尚、箱根関所では、頭を剃って
人に会わされるとの記載がある。
これらは、八王子関所の刑罰であるが、こういった厳罰があるにも関わらず、スリルを味わおうというのか、
関所破りはたえなかったそうだ (なめんじゃねーよ)(=・・=)
国定忠治の関所破りは有名。博徒などの凶状持ちには、当然、手形は発給されないので、
山から山、谷から谷、人里離れた間道を通りぬけていっただろう。そして、それが分かれば
人相書が配られ、WANTEDである。
関所のビジネスアワー は、朝6時から夕方の6時まで。これは、
どこも同じだ。八王子の関で、この門限は固く守られたが、例外は、
京都または江戸から朱印を携帯した人馬、大阪定番または、
江戸南町奉行所の証文をもった者に限って夜間査証通行も
許されていた。ただし、関所役人の裁量で、無手形でも、通行を
認める臨機応変の処置もできたという(これも袖の下?)。
そして、幕末、関所網気は乱れ、木戸外で秘密の手形代行業も
営まれたという。
関所手形は、庶民の場合、名主が、名前の他に旅の目的・人数・日にち等を紙に記載する。
パスポート以外に出入国カードが必要なのだ。武士の場合は、所属と氏名のみという形で簡素化
されていた。それにしても、手形はすべて紙に記載で、くま大名のように将棋の駒形をしたものは、
見当たらなかった。が!! ついに翌日、駅の売店で、キテイちゃんがうさちゃんと、
将棋の駒手形で、関所を通過する絵柄のハンドタオルを見つけたのだった。
外国人(Alien)の取扱い 八王子関において、安政の開港以降、今やミシュラン三つ星
マウンテンである高尾山が、横浜より、十里以内か否か問題をおこしたそうだ。当時、横浜より
各方十里以内が、外人遊歩地域に決められていた。ここで、外人通過が問題となったのは、
慶応2年8月24日。アメリカ行使、ホルトメン・アドミラル他6人の外人で、富士登山の帰途であった。
その時、彼らは関役人の制止も聞かず馬上被物のまま通行したので、(これも、なめんじゃねーよ)。
関役人は、直ちにその旨、上司に報告し、指揮を仰いだが、翌3年4月16日になってようやく、
次の裁定書が届いた。それには、異人通行の儀風習も違い候に付・・・とあり、外国人に限り
特別の措置が取られた。
幕府軟弱外交である。横浜から高尾まで14里はある。10里なら府中どまりである。正確には、
彼ら7人とも磔である。外人が富士登山をするなら、幕府が富士登山許可書を発給すべきである。
たぶん、言葉がよくわからないのだろう。言葉がわからないのは大問題である。わたくしが、
この時の関守だったら、彼ら外人を止める自身は100%ある。西洋はレディーファーストなので、
変な意味ではなく、婦人が行ったほうがよいケースだってあるのだ。
関所the final 江戸時代大事件のひとつといえば、由井正雪の乱(1651年4月〜7月)である。
このとき、どこの関所でも、警備を強化した記録が存在する。江戸から脱出そして江戸に潜入する
浪人の取り締まりは徹抵的だった。
そしてついに、1869年(明治2年)、時代の流れを見つめ続けてきた関所は、
歴史の舞台から消えることになる。
さらば関所