第二部:まさかどスーパースター

 

 

Masakado2   首塚のある場所は、もとは、武蔵国豊島郡芝崎村といい、将門様の首塚が

   あったが、荒廃しており、疫病が大流行。天変地異も頻発。そこに、

   遊行二世真教上人が訪れ、供養した。近くに、時宗の日輪寺を建立し、

   神田明神を鎮守したと伝えられております。

 

 神田明神東京都千代田区外神田  ご祭神は・・

  大巳貴命(オオナムチノミコト)別名:大国主命(おおくにぬしのみこと)

   or だいこくさま    縁結びのかみさま。

  少彦名命(スクナヒコナノミコト) 別名:えびすさま 商売繁盛のかみさま。

  平将門命(タイラノマサカドノミコト)別名:まさかどさま 除災厄除のかみさま。 

   神田明神は、730年(天平2年)、大巳貴命の子孫といわれる出雲氏族・

   真神田臣によって創建された古社である。創建場所は、現在の首塚から

   皇居のあたり。もともと、首塚と神社は同じ場所に建っていた。それがある時期、

   首塚だけを残し、神社は現在の地に移動した。神田明神は初めから将門様を、

   ご祭神として、祀っていたわけではない。創建当時は、

   大国主命(おおくにぬしのみこと)だけ。そこに首塚ができ、1309年(延慶2年)、

   時宗の二世真教上人が、将門様を神として祀った。真教上人が将門様を

   お祀りしたのも、将門様が死して祟り神となられ、自己主張なさっていたため

 なのである。

 

 

Masakado6 戦国時代には、太田道灌や北条氏綱といった名だたる武将によって崇敬され、

 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで、徳川家康が戦勝の祈祷を行うと、

  神田祭の日に見事勝利し、天下統一を果たすのです。これ以降、徳川将軍家

  より、縁起が良いとされ、祭礼を絶やすことなく執り行うことを命じられたそうで

  ございます。八王子千人同心も、大阪冬の陣・夏の陣に出陣しております。

  平将門公、有難うございました。徳川幕府と将門様は相性がよろしいのです。

 

   江戸幕府が開かれ、神田明神は幕府の尊崇する神社となる。1603年

   (慶長8年)、江戸城拡張により、神田明神は駿河台に仮遷座。1616年

   (元和2年)、幕府より社殿が造営され、現在の地に遷座したとある。

   神田明神は江戸城の表鬼門にあたる。徳川幕府は、将門様の霊力を

   鬼門守護に 欲したに違いない。のちに幕府は、明神の神田祭りを重要視し、

   神輿が江戸城内に繰りこむことを許可する。江戸城裏鬼門は、赤坂の

   日枝神社である。2社の祭りは、「天下祭り」「御用祭り」として賞賛された。

   そして、将門公のおわす神田明神は、幕府をはじめ、江戸庶民にいたるまで、

   おなじみの神社となるのです。ところが、1869年(明治2年)、だいこくさまと同じ、

国造りの神様である少彦名命(スクナヒコナノミコト)・えびすさまを合祀して、

将門様は格下げされてしまうのです。江戸っ子は、江戸の総鎮守・神田明神の将門様に

ひとかたならぬ畏敬の念を抱いているのに、摂社・将門神社に遷座されるのです。

                

   「おらが村の神様に、なにしてくれるだあーっ、めーじせーふのイモ―っ」

さつまいもは、痩せた大地で育ち栄養価満点。宇宙ステーションの非常食としても採用された

食品のスーパースターだ。

 

    明治政府は同地に大蔵省を置き、首塚をその敷地の1角に保存していた。政権はすでに、

    徳川幕府から明治政府に移行しており、江戸城の主も、天皇家となった。明治政府は朝敵であった

    将門様を、お粗末にしようとしたのではないのだろうか。関東大震災のあった大正11年11月、

    将門塚の発掘は、塚跡を整理するという名目のもとに、実行された。塚を掘ると、土の下から小さな

    長方形の石室が発見される。しかし、内部は空っぽだったのである!。中には、比較的新しい時代の

    瓦や陶片の混ざった土が入っており、一度発掘されて補強された形跡があったと記録にはある。

    誰が何のためになぜ、よりにもよって、ツタンカーメン王にも匹敵する将門様の首塚を

    発掘したりなんぞしたのか?

 

 

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平将門・魔法陣