第一部:生きている間の活躍

 

Masakado8 平将門(903年?〜    )

  桓武天皇から5代目。茨城県出身。平安時代中期に活躍。相馬小次郎

  ともいう。 当時の土着国司の子弟は都に出仕し、しかるべき上級貴族と

  主従関係を結び、位階・官職を手に入れるのが一般的であった。

  「将門記」によると、将門様は武勇においては並ぶ者がいなかったが、

  都のような複雑な社会には不向きだったようだ。確かに、将門様は、

  都のガラではない。そんな将門様も、源護や伯父の平国香と父の遺した

  領土権について争ったことから、その、運命は変化していくのであった。

 

935年(承平5年)2月 将門は平国香・源護たちと戦い勝利する。伯父の

平国香を殺し、罪人となって京都に上がり、この罪はいったん許され、

帰郷する。

939年(天慶2年)12月  将門が、部下を坂東諸国の国司に任命する。

そして、上野国府で、新皇(新しい天皇)と称し、都を下総に建てようとする。

 

 

 

Masakado1 (朝廷からは謀反の名乗りである。)将門は朝廷の敵となり将門討伐令が

    発布される。

  940年(天慶3年)正月1日から9日 ・政府が比叡山延暦寺で将門の調伏を

    祈らせる。      ・将門の乱平定のため、伊勢神宮に奉幣する。

   〃1月11日 ・政府が東海道・東山道に将門の追捕官符を下す

  〃 1月13日  ・政府が神社に将門の平定を祈らせる

   〃 1月14日 ・追捕凶賊使として藤原秀郷を。

  下野掾・平貞盛を常盤大掾に任命する。

   〃1月18日 ・参議・藤原忠文を征東大将軍に任命する。

   〃1月21日 ・諸寺社に仁王経を転読させ、伊勢神宮に奉幣する。

  "1月22日と24日  ・将門の調伏を祈願する。

 

 

朝廷の敵となった939年12月から翌年1月の間、政府は必死にお祈りをやっている。

これは、将門様が生きている間も、いかに非凡で強かったかを示しているようで、

思わず嬉しくなっちゃうのであるーっ。ヽ(^。^)ノ

 

 

〜将門最期の戦い。独立国家への夢は〜

940年2月14日。将門は甲冑を身につけ出陣する。いつもは8000人だが、この日は、

400人ほどの兵士しかいなかったそうだ。将門は、しばらく、猿島郡の北山を背にして陣を張り、

貞盛と秀郷を待っていた。そして、最期の戦いは、午後3時頃始まった。この日は大風が吹き、

砂埃が舞い、最初、将門軍は追い風を得て、貞盛・秀郷軍は風下に立った。当時の合戦は、

弓矢が重要で、風上にたつことが、絶対有利となる。将門軍の楯は前向きに倒れ、

貞盛・秀郷軍のは後向きに倒れた。両軍は楯を離れて戦い始めた。 貞盛・秀郷軍は劣勢にたち、

将門軍は馬を連れ、敵を討取った。その数80人ほど。追撃して圧倒した。将門軍が攻めよると、

貞盛・秀郷・為憲の兵2900人は皆逃げ出した。残ったのは精兵300人ほど。彼らは逃げ回り

ながら追い風が吹くのを待っていた。将門が本陣に引き揚げると、突然風向きがかわった。

今度は風下にたち、将門軍が不利な戦況になってしまう。いや、そこは、非凡なあの方のこと。

 

将門は、呪術によって、藁人形から6体の分身を出現させた。そして、

「なんどころからでも、射抜いてみよ!!」と、仰せになりました。 

 おーっ、これぞ将門公のPatent(=特許権)、他の誰にも真似できません!!

しかし、分身は影をもたず、見破った藤原秀郷は、すかさず矢を放った。そして、その矢は、

将門様の眉間を射抜いてしまったのです。

 

・・・・これが、わたくしの知る将門公の最期です。武将というより陰陽師のようですが、

こうゆった戦い方ができるのは、長い日本史を紐解いても、平将門公以外どなたもおりません。

それにしても、バレンタインデーにあっさり射抜かれちゃったとは。

 

将門様の御首は都に晒されました。しかし、新幹線よりも速く、京都から東京へと

お帰りになるのでございます。そして、お帰りになったその日から、

平将門第二の戦いが始まるのであった。

 

 

To be continued

  続く

 

 

 

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平将門の乱

参考書籍