フラニョ・トゥジマン(Franjo Tuđman, 1922年5月14日〜1999年12月10日)

 

 

1922年5月14日、クロアチア北部ザゴリェ地方の小村ヴェリコ・トルゴヴィシュチェで生まれる。

1941年、ユーゴ共産党パルチザン部隊に身を投じ、戦後は、

旧ユーゴ連邦国防省参謀本部に勤務し、その後、ユーゴ人民軍最年少の将軍へと昇進。

 

1961年、人民軍を退役した後、クロアチア労働運動史研究所の所長に就任。1967年迄、

そのポストにあった。そして、クロアチア共産党で、要職を務め、

クロアチア議会議員にも選出されていた。

 

1963〜1967年、ザグレブ大学歴史学助教授を務める。1965年に、

ザグレブ大学より歴史学博士号を得る。

 

トゥジマンの歴史研究は、クロアチア民族主義に大変拘ったもので、大きな波紋をよんだという。

・ 第二次世界大戦中のクロアチア独立国を支配していたウスタシャの評価に関して。

  クロアチア南部サヴァ河畔にあった"ヤセノヴァツ収容所″は、クロアチア独立国の

"アウシュヴィッツ″と称されていた。問題になったのは、そこで殺害されたセルビア人を

  はじめとする犠牲者の数である。その数は、ウスタシャの蛮行の象徴であったために、

  多くの議論をよんでいた。トゥジマンは、犠牲者数を最大3万5千人として、

  クロアチア政府側の  公式見解10分の1という数字を示した。犠牲者数は

?共産主義者″によって、  不当に増やされているとトゥジマンは主張した。

 

また、トゥジマンは南スラブ統一主義を厳しく批判した。理由は、

形式的には多民族平等主義であるのに対し、実質的にはセルビア人中心の

国家体制が建設されており、両者の食い違いが著しいからだという。

 

このようにトゥジマンは、急進的なクロアチア民族主義者たることを隠さなかったので、

多民族共存を慎重に維持している当時の旧ユーゴ連邦にとって、

こうしたトゥジマンの言動は許されるはずはない。

 

1967年、公職から追放される。しかし、追放後も、急進的民族主義者としての姿勢は変わらず、

クロアチア自由化運動"クロアチアの春″に関与する。民衆運動にも参加し、

クロアチア民族主義的言動を行ったことを問われ、1972年1月から2年間の懲役刑に服する

(刑期は9ヶ月に短縮)。1981年初め、スウェーデンのテレビ局のインタビューにおいて、

旧ユーゴ連邦におけるクロアチア人の立場に関して答えた内容で、3年間の懲役・5年間の

公的活動停止という判決をうける。このときの獄中生活は、11ヶ月で終わり、

健康状態悪化の為1984年5月に釈放される。

 

釈放後に、トゥジマンはカナダやアメリカのクロアチア移民のところを訪れている。

この時培われた海外ネットワークは、トゥジマンの政治活動を物心両面で支え、

1989年のクロアチア民主同盟創設にも多大な貢献をした。

海外のクロアチア人はトゥジマン政権を支える人材も供給したという。

 

しかし、Pたちから、トゥジマンの名を一度も聞いたことはない。

アメリカのクロアチア移民は、カリフォルニアでワインを造っている人が多いそうだ。

 

その後、トゥジマンは、クロアチア民主同盟党首として、1990年春の議会選挙戦で

行った演説の中で、"歴史的かつ自然の境界の中に居住している全クロアチア人にとっての

(ユーゴからの)分離独立をも含めた神聖・不可侵な自決権″を強調している。

 

1990年、クロアチア共和国初代大統領に就任。この時は、間接選挙によるものだったが、

1992年8月・1997年6月には、直接投票で圧勝した。しかし、ボスニア内戦への介入は、

議会内外・クロアチア内外での批判を呼び、最後には身内の政治スキャンダルも報道される。

 

フラニョ・トゥジマンは、1999年12月10日に死去する迄、クロアチア大統領を務めた。

 

 

アリヤ・イゼトベゴヴィッチ(Alija Izetbegović、1925年8月8日〜2003年10月19日)

 

 

アリヤ・イゼトベゴヴィッチは貴族の出である。1925年8月8日、ボスニア北部の都市

ボサンスキ・シャマツで生まれた。かつてのオスマン統治下ベオグラードの高貴な家柄であったが、

1878年のセルビア独立後、ボスニアに移住してきたという家系である。

 

1930年代・40年代と、ボスニアのイスラム教徒の結社と慣れ親しみながら成長し、

第二次世界大戦中には、保守的な宗教組織?青年ムスリム″の熱心な活動家であった。

終戦直後には、その熱心な宗教活動の理由で、3年間の獄中生活を経験し、

1949年に釈放された。

 

その後、サラエボ大学農学部・法学部を卒業し、法律家として生計を立てる一方で、

ボスニアのイスラム教徒として、政治活動を継続していく。

 

1970年には、「イスラム宣言」、1980年には「東と西の間のイスラム」など、

作家としても、多数の作品を著わしている。これらの著作は、海外で多くの言語に翻訳され、

出版された。

 

なお、前述のセルビア民族主義の「覚書」の全文が、1993年迄、旧ユーゴ連邦国内で

公表されなかったように、イゼトベゴヴィッチの「イスラム宣言」が、セルビア・クロアチア語で、

出版されたのは、1988年になってからである。

 

イゼトベゴヴィッチが「イスラム宣言」で主張したのは、"ムスリム人のイスラム化″だ。

1963年、旧ユーゴ連邦は、ムスリム人(南スラブ人イスラム教徒)を民族として認定したが、

イゼトベゴヴィッチによれば、このことは、イスラム教徒の世俗化へとつながり、さらに、

堕落を意味するというのだ。なぜなら、「イスラム」は、単なる宗教ではなく、精神世界と

物理世界の接点に位置すべきもの。従って、「イスラム」を捨てたトルコは、オスマン帝国

という大帝国からヨーロッパの三流国家に堕落してしまったのである。

 

また、「イスラム宣言」の中で、旧ユーゴ連邦の「イスラム国家」化を提唱しているとされ、

ムスリム民族主義活動で、1983年4月、同志と共に逮捕された。ボスニア最高裁の判決は、

12年の懲役刑であったが、5年間の獄中生活を経て釈放される。1988年11月のことだった。

 

その後、ボスニアのムスリム人政党・民主行動党創立メンバーの1人となる。党内では、

他民族との融和を説く穏健派と激しく対立。「イスラム宣言」に忠実であったという。

民主行動党は、1990年11月のボスニア議会選挙で第一党となり、イゼトベゴヴィッチも、

ボスニア幹部会会員に選出され、12月には、ボスニア幹部会議長(大統領)に就任した。

 

ボスニア大統領として内戦を戦い抜くわけだが、和平よりも重視するとした統一ボスニア、

しかも、ムスリム人主導の統一ボスニアにこだわるイゼトベゴヴィッチの姿勢ゆえに、

内戦が長期化し、犠牲者や被害が増大したのは明らかである。

 

イゼトベゴヴィッチは、1990年12月〜1998年10月と、2000年2月〜10月に

ボスニア大統領を務め、政界から引退した。2003年10月19日、死去。

 

  

 

この3人の意見が一致することは、なかった。

 

 

Dalmatian1

    

画像提供:クロアチア政府観光局

 

 

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