Hope for Eternal Peace
Zeljem vječan mir Зeлjem вjeчaн mир
永遠の平和を望む
By LadyMoon
1984年、日本の冬は、本年と同じ豪雪だった記憶がある。そして、この年は、
サラエボ冬季五輪が開催された年でもあった。しかし、平和の祭典であるはずの
五輪開催地がこの10年後、殺戮の戦場へと変わってしまうのだった。
ユーゴ紛争は、さまざまな民族の確執であると聞いても、日本人は、あまり実感がわかないだろう。
1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ戦争は、二度にわたる世界大戦を除けば、
ヨーロッパ近代において最大の犠牲者が出たといわれている。死者20万人以上、難民も
ヨーロッパ最悪の340万人に迄上がったとされる。
特に、セルビア人勢力による民族浄化は世界を震撼させた。イスラム教の男性は皆殺しにし、
女性はレイプしてセルビア人の子を産ませる。イスラム教は、堕胎を認めていないことを
見越しての行為だったそうだ。虐殺・排斥・レイプによって、異民族を排除し、
民族構成を鈍らせようとする、これが、民族浄化である。集団レイプは計画的・組織的に行われた。
旧ユーゴ人権問題特別調査団が把握しただけでも、約1万2000人もの被害者が出ている。
しかし、このような、第二次世界大戦中のナチズムを想起させる
野蛮な行為を行ったのは、セルビア人勢力だけではない。
クロアチア人やムスリムも又、同じような蛮行をしてきたのである。
なぜ、こんな酷いことが起きてしまったのか?
バルカン半島は、東西文明の接点であり、交通の大動脈でもあった。
そして、その回廊の中心部に位置する
ユーゴスラビアとは?連邦を語る際、必ず引き合いに出される表現が、
<七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、二つの文字、三つの宗教、一つの国家>
七つの国境とは、オーストリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ギリシャ・ アルバニア、
そして、イタリアとの国境である。
六つの共和国とは、北から、スロヴェニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ・セルビア・
モンテネグロ・マケドニアである。セルビアには、ヴォイヴォディナと
コソボの二つの自治州が存在する。
五つの民族は、 セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人・マケドニア人・モンテネグロ人
そしてボスニア人(ムスリム人)で計6つに。ここの5プラス1の民族は全員、
南スラブ人だ。実際は20を超えるモザイク国家であるが、ここでは、
領土をもつ民族のみを示した。
四つの言語とは、セルビア語・クロアチア語・スロヴェニア語・マケドニア語。
Pによると、セルビア・クロアチア・ボスニアは、同じ言語(セルビア・クロアチア語)を話す。
但し、地域によって方言が存在する。一緒に観に行った?ノー・マンズ・ランド ″という
映画があるが、「彼らが話していることはすべて分かる」と言っていた。
二つの文字は、ラテン文字とキリル文字。
私、上に書きました、左側がラテン文字で、右側がキリル文字です。キリル文字は主に
セルビアとマケドニアが利用しているそうですが、セルビアはラテン文字もOKです。
三つの宗教は、 ローマンカソリック・東方教会・イスラム教。
一つの国家は、 旧ユーゴ連邦ことユーゴスラビア社会主義連邦共和国。
ユーゴスラビアはチトー死去後、内戦へと突入する。ここに記述するのは、
その内戦に深く関わった3人の民族主義リーダーのレジメである。
スロボダン・ミロシェヴィッチ
(Slobodan Milošević, 1941年8月20日〜2006年3月11日)
1941年8月20日、セルビア北部の小都市ポジャレヴァツで生まれた。
1964年、ベオグラード大学法学部卒業後、セルビアのエネルギー会社テクノガスに入社。
1968年には幹部、1973年には社長に就任。その後、旧ユーゴ連邦最大の銀行・
ベオグラード銀行に移り、1978年には頭取に。1984年、後見役スタンボリッチの引きぬき
によって、政界入り。スタンボリッチは、1963年〜1967年に連邦首相、
1982年〜1983年に連邦幹部会議長、セルビア政界の大立て者だ。セルビア共産党議長
に就任した際、ミロシェヴィッチをセルビア共産党ベオグラード支部のリーダーに推薦した。
その後、セルビア幹部会議長に転出したスタンボリッチ後任として、
1986年に、ミロシェヴィッチがセルビア共産党のトップに立った。
ところでこの頃、「覚書事件」があった。「覚書」とは、セルビア科学技術アカデミーが
著した極秘文書。その一部分が、1986年11月、セルビアの夕刊紙で暴露された。
「覚書」は、一部と二部に分かれており、その第一部には、旧ユーゴ連邦の政治・経済システム
への批判がなされ、自主管理も厳しく非難されていた。そして、第二部には、旧ユーゴ連邦
において、セルビア人の立場が不当に評価され、差別されていると述べられ、特に、
政府がコソボのセルビア人の迫害や差別を傍観していると、現状が強く非難されていた。
実際、コソボでは、多数派アルバニア人が少数派セルビア人に対して圧力をかけ続け、
セルビア人の大量脱出が目立っていたのだ。
ミロシェヴィッチはスタンボリッチらと共に、こうした「覚書」を厳しく非難した。
つまり、この頃のミロシェヴィッチは、民族主義は有害であると考えており、
セルビア民族主義者ではなかったのだ。
しかし、そんなミロシェヴィッチに転機が訪れる。
1987年4月、コソボのポーリェで行った有名な演説
"もう誰にも君たちを殴らせたりはしない″ そうだったのか現代史(P399)
当時のコソボでは、アルバニア人による暴行や虐待に耐えかね、抗議したセルビア人が
大集会を開催し、現地の警察隊と衝突していた。その収拾役としてミロシェヴィッチは派遣された。
その演説の中で、ミロシェヴィッチは、コソボのセルビア人を守る旨を宣言し、セルビア内外の
セルビア人たちの守護神となった。「覚書」を厳しく非難したミロシェヴィッチではあったが、
コソボのセルビア人の惨状を目の当たりにしたのだろう。
その後、独自の体制作りを進めていき、1987年9月、セルビア共産党第8回中央委員会席上、
コソボ問題の穏健な処理を主張するスタンボリッチ・パヴロヴィッチと対立。パヴロヴィッチは
ミロシェヴィッチの後任で、セルビア共産党ベオグラード支部を取り仕切っていた人物。この時、
ミロシェヴィッチは綿密に根回しし、論争に勝利する。人民軍もミロシェヴィッチ支持に回る。
パヴロヴィッチはセルビア共産党幹部会会員を解任され、スタンボリッチも数日後、セルビア
幹部会議長職からの辞意を表明、12月、辞任。そして、ミロシェヴィッチの画策で、
1988年10月、自治州のヴォイヴォデイナ指導部が辞任。1989年1月、セルビア人に
民族的親近感を有するモンテネグロ人が多数を占めるモンテネグロ指導部も辞任した。
ミロシェヴィッチのやり方は、大規模なデモを組織し、指導部に圧力をかけるというものだった。
コソボでも同様の手がとられ、それに抗議したアルバニア人のストライキに対し、
警察の特殊部隊を投入し、鎮圧。
1989年3月、セルビア憲法が改正された。自治州から立法・行政・司法権の一部を略奪。
こうして、ミロシェヴィッチは、セルビア本体・ヴォイヴォデイナとコソボの両自治州・
モンテネグロの実権を握ったのだった。そしてこれは、ミロシェヴィッチが、
連邦幹部会の決定をも左右し得ることを意味した。
これに危機感を抱いたのは、北部経済先進地域スロヴェニア共産党議長のクーチャンだ。
1990年1月の、ユーゴ共産党第14回臨時党大会に、スロヴェニア共産党代表団を率いて、
ベオグラードに乗り込み、ミロシェヴィッチと激しい論争を繰り広げ、会場から退場した。
ユーゴ共産党の命運を決めた事件だった。
ミロシェヴィッチは、1990年12月と1992年12月、セルビア大統領に選出される。その後、
セルビア憲法の大統領3選禁止規定のために、1997年7月、ユーゴ連邦大統領への転身を図り、
連邦議会議員の投票によって選出された。
1999年3月から、コソボ内戦で、NATOによる爆撃をセルビア全土に受ける。
2000年9月、ユーゴ連邦大統領選では、選挙規定の変更により直接投票を実施。
国民によって支持されている姿を内外に示そうとしたが、失敗し落選。
ここに、ミロシェヴィッチ体制は崩壊し、ミロシェヴィッチはオランダのハーグに拘引され、
旧ユーゴ国際刑事裁判所の公判期間中、2006年3月11日に獄中で死去した。
そして、クロアチアでは、トゥジマン率いるクロアチア民主同盟がすでに誕生していた。
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