スラヴォニア (Slavonija)にて

Slsvonski1          

写真提供:クロアチア政府観光局

 

2003年秋、Pと"八王子車人形ニューヨーク公演″を観に行った。演目の

後方ページに、JapanSocietyへ寄付した団体や個人名が記載されていた。

それを見ながらPは、「Warの時こそ、助けてほしかったんだけど・・・」と呟いた。

クロアチアは第二次世界大戦時、日本の同盟国であり、親日家も多い。

クロアチア内戦の起きた1991年、日本は、バブルだった。

何も気づかず、何も出来なかった自分が、情けなかった。

 

 

クロアチア内戦の勢いは止むことを知らず、キャリントンがEC特使として議長を務める

ユーゴEC和平会議の活動は不調。キャリントンは、10月18日に、ハーグで開催された

ユーゴEC和平会議の第6ラウンドにおいて包括和平案(いわゆる「キャリントン和平案」)

を提示した。包括和平案は、総論・人権及び民族・国民的少数派の権利、協力関係

(経済・外交と安全保障、法律)、協力を行う機関という4部に分かれていたが、その

根幹は、少数民族の自治に留意しながら旧ユーゴ連邦を国家連合に改編することだった。

 

 

ミロシェヴィッチの役割 

この和平案に対しては、クロアチア内のセルビア人の保護に関して

不十分であるという理由で、ミロシェヴィッチが厳しく批判した。

原案受入に関するミロシェヴィッチ難色の結果、協議はストップ。

キャリントンはその後、セルビア人の立場に更に譲歩した修正案を発表したが、

ミロシェヴィッチは、せいぜい交渉の出発点として評価したのみだった。

 

旧ユーゴ連邦解体期間において、ミロシェヴィッチは、セルビアの代表と

セルビア人の代表というふたつの意味で、当事者だったという。

 

セルビア大統領として和平交渉に参加し"平和こそがセルビアの政策実現の最良の方法である″

と、セルビア代表を内外にアピールし、他方でセルビア人の?守護神″として、セルビア外の

セルビア人に配慮もしていた。

 

政治家ミロシェヴィッチは、それぞれの立場で行動していくわけだが、まず、

セルビア大統領としてのミロシェヴィッチ。9月17日にベオグラードで、

モンテネグロ、ボスニアの代表を集め会議を開く。会議には、ミロシェヴィッチの他

モンテネグロ大統領ブラトヴィッチ、ボスニア議会議長クライシュニク、

ボスニア幹部会会員のコリェヴィッチとプラヴシッチ、連邦議会議長の

グリゴリイェヴィッチが参加し、又、オブザーバーとして?歴史的協定″の当事者、

ボスニア・セルビア民主党首カラジッチと、ムスリム・ボスニア人組織党首

ズルフィカルパシッチが同席した。会議では、平等な民族、市民、

共和国からなる共同国家としてのユーゴの性格を強調する文書を採択し、

将来のユーゴ憲法の基礎とすることを決定したのだった。

 

次に、セルビア人の"守護神″としてのミロシェヴィッチだが、

必ずしも"守護神″として行動しては、いないようだ。

キャリントン和平案やその修正案をめぐる発言に見られるように、

確かに交渉におき、セルビア人の利益を代弁し、また、クロアチアの

セルビア人代表の交渉参加を主張している。しかし、他方で、

クロアチアのセルビア人に行動の自制を求めたりもしている。つまり、

ミロシェヴィッチの行動の根底にあるものは、自身の権力の防衛、

あるいは、国益の擁護。

 

この当時のクロアチアのセルビア人地域には、ふたつの政治体が成立していた。

 1.クロアチア中部のクライナ・セルビア人自治区

 2.クロアチア東部のスラヴォニア・バラニャ・西スレムセルビア人地区である。

 

クライナ・セルビア人自治区議長バビッチは、スラヴォニア・バラニャ・

西スレムセルビア人地区首相ハジッチと並んだ記者会見において、

ミロシェヴィッチからクロアチアのセルビア人の利益に反すると

判断できるような圧力が、バビッチらにかかっていることを明らかにしている。

他方で、クライナ・セルビア人自治区内相マルティッチは、

ミロシェヴィッチの圧力を否定している。マルティッチは、

ミロシェヴィッチ指導下のセルビア抜きには、クライナが存在しえないとし、

人民軍の必要性も主張していた。

 

ミロシェヴィッチのセルビア民族主義に対する姿勢が非常に機会主義的であったために、

ミロシェヴィッチとの距離の取り方の相違によって、クロアチアのセルビア人の

政治リーダー間に亀裂が生じていくのだった。

 

クロアチアでは、12月に入っても、ドゥブロヴニクや西スラヴォニアの拠点

オスィイェクを始め、散発的な戦闘が行われていたが、9日には人民軍による、

ドゥブロヴニク海上封鎖が解除されるなど、大勢は沈静化の方向にあった。

そして、セルビア人によってクロアチア内の自民族地域は、ほぼ掌握され、

その後、国連特使ヴァンスによる和平案が実行されることになる。

 

国連個人特使ヴァンス

ヴァンスが、任期終了間近のデ・クエヤル国連事務総長によって、個人特使として

任命されたことが明らかになったのは、1991年10月初めのことである。

アメリカ出身のヴァンスは、法律家としてキャリアを積む一方で、ケネディ、

ジョンソン両政権の1962〜64年に、陸軍長官、同じく、ジョンソン政権時に

国防副長官に転じ、1967年迄、その職にあった。更に、キプロス、朝鮮半島、

ベトナムに関する交渉に、大統領特使や交渉代表団員として、

参加経験をもつなど、要職を歴任してきた人物だ。

 

国連は、クロアチア内戦に関しては、それ迄、ECに対処を委ねていたが、

クロアチア・スロベニア両国の再独立、その後の、クロアチア内戦によって、

EC主導の仲介が失敗に終わったことが、明らかである上、

ユーゴEC和平会議の活動も不調であった。このような時期、国連は、

ヴァンス特使の任命によって本格的な活動に乗り出す。

 

ヴァンスは、1991年10月12日に、ロンチャル連邦外相と会談した後、

18日には、ハーグで、ユーゴEC和平会議第6ラウンドに参加した。

EC主導の和平交渉の行き詰りは明らかであり、地方レベルでの再三に渡る

停戦合意にもかかわらず、現地では、ヴコヴァルやドゥブロヴニクを中心に

戦闘が続いていた。そういった状況下、和平交渉の主導権は

ヴァンスの手に移って行く。 

 

 

 

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pianomini戦場のピアニスト・マクシム

クロアチアン・ラプソティが一番好きな曲です 

Maksim Mrvicaはシベニクの出身。

1990年、 クロアチア紛争戦火の中、

地下室でピアノの練習を続けていた

戦場のピアニストだ。