プリトヴィツェ湖 - ユネスコ世界自然遺産
画像提供:クロアチア政府観光局
こういったクロアチアの動きに対し、少数派セルビア人は危機感を抱き、同じ7月25日、
クロアチア・セルビア民主党は、党首ラシュコヴィッチを中心に集会を開いた。そして、
セルビア国民会議(クロアチアのセルビア人の議会)を結成し、
"セルビア人の主権と自治に関する宣言″を採択した。自治に関する住民投票の実施を
8月16日に決定。
クロアチア民主同盟は、セルビア人の攻勢に反発を強める。幹部は、記者会見において、
クロアチア内でセルビア人が自治を有することは違憲であると非難し、8月16日の住民投票を
阻止するという声明で応じた。翌日未明、セルビア人は、ダルマツィア中部ベンコヴァツの
道路封鎖を始め、セルビア人地域クライナ地方の中心都市クニンを封鎖する。
トゥジマン大統領は流血の事態、内戦を危惧しつつも、主権を守る姿勢を崩さなかった。
クロアチア内での、クロアチア政府とセルビア人との武力衝突の始まりである。
クライナ地方の住民投票の結果を受けて、10月1日、セルビア国民会議により
クライナ・セルビア人自治区の設立が明らかにされ、これにより自治区と外部をつなぐ
道路・鉄道の封鎖が始まった。この後、ペトリニャ・プリトヴァツ・バクラツなど各地で
警察隊を始めとするクロアチア内務省の部隊(クロアチア警察隊)とセルビア人との
間に武力衝突が頻発していく。
トゥジマン政府の対セルビア人姿勢が内外に公式表明されたのが、12月22日公布の
新憲法・クリスマス憲法だ。序文で、クロアチアは「クロアチア人及び全市民」の
国民国家であると宣言された。つまり、セルビア人の存在は無視されたのだった。
1991年初め、クライナ・セルビア人自治区政府にあたる執行会議が内務部隊を結成。
党首ラシュコヴィッチは、クロアチア政府に対して完全な自治を求める一方で、
セルビア国外のセルビア人については、セルビア政府の管轄ではなく、
連邦レベルの問題であるとし、セルビア大統領ミロシェヴィッチとトゥジマンが
合意したとしても従わない旨を明らかにしてミロシェヴィッチからの自立性を示している。
しかし、自治を強調するラシュコヴィッチに対しセルビア国民会議議長
兼クライナ・セルビア人自治区首相で、強硬派のバビッチは、
クライナ・セルビア人自治区のクロアチアからの分離を求めていた。そして、
ラシュコヴィッチのアメリカ訪問中に、バビッチがクライナの実権を奪ってしまう。
2月末に、バビッチは、国連人権委員会において窮状を訴える。
クライナ・セルビア人自治区執行会議とセルビア国民会議は、合同会合を開催し、
クロアチアからの分離と旧ユーゴ連邦への残留を決定した。
クロアチアのセルビア人の反クロアチア政府的動きを後押ししたのが、ボスニアのセルビア人だ。
ボスニア・セルビア民主党党首のカラジッチは、クロアチア政府をファシストであると決めつけ、
彼らが目的を実現する手段は大量虐殺しかありえないとしていた。また、カラジッチは
ミロシェヴィッチは、あくまでも便宜的にセルビア人の代表でしかないとも明言していた。
5月12日、クライナ・セルビア人自治区では、住民投票が実施され、圧倒的多数で、
クロアチアからの離脱、旧ユーゴ連邦への残留が決定した。そして、5月15日から18日
にかけての住民投票でも同様の結果が、他のセルビア人地域であるスラヴォニア・バラニャ・
西スレムで明らかになった。
ボスニア西部で結成されたボスニア・クライナ自治体同盟とクロアチアのクライナ・セルビア人
自治区のセルビア国民会議とは、クロアチアの独立宣言に対抗する形で、6月27日に、
セルビア人統一国家への第一歩として両クライナの統一合同宣言を発するのである。
両地域はウナ川を挟んで背中合わせであり、両セルビア人地域間の協力関係は、前者が
セルビア人共和国、後者がクライナ・セルビア人共和国となった。1995年8月に、
クライナ・セルビア人共和国が消滅するまで継続し、クロアチア、ボスニア内の混乱を
有機的に繋げることになる。
更に、クロアチア独立宣言当日の6月25日に、
クロアチア東部のスラヴォニア・バラニャ・西スレム
セルビア人地区の設立が宣言されている。
しかし、セルビアのセルビア人は、それらの地域とセルビアとの統一を
必ずしも歓迎していなかったようだ。セルビアの週刊誌「ニン」7月7日(1991)号
掲載のアンケートによれば、統一を正しいと考える人の割合が46%であったのに対し、
誤りとしたのが49%だったのである。
母国に居住しない少数派セルビア人は、とりのこされる恐れから、
かえって、民族主義が突出したといえるのかもしれない。