わたしが神父だから慈悲深いなんて思ったら大間違いだ。
憎いセルビア人を殺すためなら、どんなことだってするぞ。
というクロアチア人神父の言葉を日本のテレビで視聴したのは、つい最近のことのように思える。
クロアチアでは、ユーゴ連邦からの離脱をめぐり、国内が不安定化していく。
国内人口の1割強を占めるセルビア人は、トゥジマン政権に反発、旧ユーゴ連邦への残留を求め、
クロアチア警察隊と各地で、小競り合いを繰り返し始めた。
1991年6月のスロヴェニア、クロアチア両国の独立宣言に伴うユーゴ内戦は
3つの時期に区分される。
第一期は、スロヴェニアの独立直後に生じた「10日間戦争」
第二期は、クロアチア独立後、9月から本格化したクロアチア内戦。
第三期は、92年3月に始まるボスニア内戦だ。
戦争について、クロアチア政府とボスニアヘルツェゴヴィナのムスリム勢力は、
内戦とは捉えずセルビアによる侵略戦争と規定している。
クロアチアのセルビア人は、農村部を中心に居住している。オスマンの支配を嫌い、
ハプスブルグ帝国の呼びかけで北上し、「軍政国境地帯」に移住してきた。
屯田兵として入植し、自治権を含め、いくつかの特権を与えられていたが、
オスマン帝国の衰退とともに、クロアチアに併合されたのは、1881年のことである。
クロアチアが独立を志向すれば領内のセルビア人は不満をつのらせ、自分達の地域を
独立させようとする動きへとつながっていくのは間違いない。なぜなら、
クロアチアのセルビア人には、第二次世界大戦中の記憶が深く刻まれていたからである。
クロアチア民主同盟は、トゥジマンを党首として、1989年6月、ザグレブで結成された。
クロアチア議会選挙では、そのトゥジマン率いるクロアチア民主同盟が終始リード。
定員351議席のうち206議席で単独過半数獲得。クロアチア内戦の当事者となる
クロアチア・セルビア民主党は5議席を獲得する。
そういった情勢の中、1990年5月13日、ある事件が起きた。ザグレブ郊外の
マクシミルサッカースタジアムで、ザグレブ(クロアチア)の"ディナモ(発電所)
vs ベオグラード(セルビア)の"ツルヴェナ・スヴェーズダ(赤い星)″の試合に
ファン同士が興奮し衝突。流血の惨事となった。最初に騒ぎを起こしたのは、
ディナモのサポーターだが、赤い星のフーリガンたちが、スタジアムを壊し始め、
サポーター同士の乱闘が始まった。しかし、止めに入った警官たちは、
クロアチア人サポーターだけを、棍棒で殴り始めたのだ。そんな不公平に
ディナモのある選手が飛び出してきて、警官を足蹴りした。その選手の名は、
ズボニミル・ボバン(Zvonimir Boban)。ボバンは、
1998年ワールドカップサッカーに出場し、日本でもおなじみの選手だ。
この時の勇気ある行動を讃えられ、その後、"Mr.クロアチア″
と称されるようになったというのは有名な話である。
「警官は、国内少数派のセルビア人で占められ、何か事が起きて、セルビア人が悪く、
クロアチア人に非がなかったとしても、クロアチア人だけを殴りつけたり、しょっぴいたりした。
それに、警官には刃向えなかった。」・・・とP
ではなぜこのように、セルビア人警官は、クロアチア人にだけ、つらく当たるのだろうか?
原因は、第二次世界大戦時にあった。
ユーゴはドイツの侵攻をうけると、国王と政府は国外に亡命。国土は枢軸軍の手で分割された。
ドイツはクロアチアに対しては、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのすべてを加え、
中世クロアチア王国とほぼ同じ領域の傀儡国家"クロアチア独立国″を創設した。
1929年1月に結成され、イタリアで活動していたファシスト集団ウスタシャの指導者
パヴェリッチが、300人の部下を引き連れて帰国。日本の同盟国でもある
"クロアチア独立国″を担うことになる。ウスタシャは、広範なクロアチア人の支持を
得ていたわけではなかったが、パヴェリッチは、ヒトラーと同様の人種政策を進め、
ユダヤ人やロマだけでなく、セルビア人を"劣等で危険な人種″とみなした。
パルチザン戦争期の死亡者は公式統計で、170万人とされているが、
その大半が、ドイツ軍の手で殺害されたのではなく、「兄弟殺し」によるものだった。
クロアチアはウスタシャと結詫し、国内のセルビア人を惨殺したのだ。
ウスタシャの尖兵としてボスニアのムスリムが使われたことも、
セルビア人の心に深く刻み込まれた。
1990年5月30日のクロアチア議会において、トゥジマンは、
クロアチア社会主義共和国幹部会議長に選出され、その後、初代大統領となる。
大統領就任演説において、トゥジマンは最重要課題として10項目を掲げた。
クロアチア共和国の新憲法制定
ユーゴにおけるクロアチアの新たな憲法的地位の調整
ヨーロッパへの仲間入りとクロアチア国内のヨーロッパ化
法治国家秩序の確立と国家行政の近代化
所有関係・経済における迅速な変革
人口の回復 移出民の帰還と再定住 etc.
クロアチア人中心の憲法制定もあり、クロアチアの主権に基ずき
旧ユーゴ連邦の分権化を行い、ECへ加盟するという意志が明確だった。そして、
トゥジマン大統領は、右腕のメスィッチを首相にし、クロアチアのためのクロアチア化を
進めていく。
6月20日には、国名を"クロアチア共和国″と改称し、国旗も変更した。
国旗は、それまでと同じ配色の三色旗の中心部に、
"中世クロアチア・スロヴェニア・ダルマツィア三位一体王国" の紋章などからなる
国章を形どったものとなった。中でも、三分の二をしめる赤と白の市松模様は
第二次世界大戦中の"クロアチア独立国"の象徴でもあった。
そして、7月25日、一連の憲法改正を行い、国名と国旗を正式に変更した上に、
クロアチアを主権国家と宣言した。
Vi ste zajedno smijali se, plakali i proslavali pobjed.
あなたがたは、ともに、笑い、泣き そして、勝利を祝った。
By LadyMoon