写真提供:クロアチア政府観光局
共産党が早期に権力を固めたユーゴとアルバニアでは、
早くから国有化と計画経済が導入される。
1946年1月31日、ソ連憲法をお手本とする社会主義憲法を採択したユーゴは、
他国に先駆けて社会主義建設に乗り出した。それ以前の1945年8月、ユーゴでは
すでに「没収に関する法律」が制定され、交通機関・主要銀行・基幹産業の80%が
国有化されていた。1946年12月と1948年4月、中小企業と零細企業が、
1947年中頃までには、工場・輸送機関の大多数と銀行のすべてが国有化された。
1947年4月から、第一次5ヶ年計画に着手し、国民所得の4分の1から
3分の1を投資に回して急速な重工業化に乗り出した。
しかし、土地改革に関しては、各国のバラツキはほとんどなく、バルカン諸国は、
1945年3月から1年の間に、土地没収に関する法律を定め、戦犯・対敵協力者・
不在地主の土地に加えて、ルーマニアでは、50ヘクタール以上の農地、ユーゴでは、
45ヘクタール以上の農地と25〜35ヘクタール以上の非耕作地、ブルガリアと
アルバニアでは、20ヘクタール以上の農地が没収され、貧農や土地なし農民に分配された。
一部の土地は、国家の管理下に置かれ、農業の協同組合化も行われた。しかし、
農業改革には時間がかかり、てこずったようだ。KPJ(ユーゴスラビア共産党)は、
生産の大規模化キャンペーンを組織しようとした。1949年1月以降、この
キャンペーンが法律としてようやく、適用されたが、農民の抵抗は激しく、政府は
耕作に必要な物資を手にいれることができなかった。そして、1951年3月、
政府は有名無実化していた生産組合から離れることを農民に認める政令を出した。
1953年、第二次土地改革で、私有地の上限が10ヘクタールに抑えられたものの、
農業の集団化は、行われず、戦後をとおして個人農が中心であったという。
チトーとスターリン コミンフォルムは、共産党・労働者党情報局で、冷戦が
本格化すると、ソ連の主導で、1947年9月に創設された組織である。1948年6月、
そのコミンフォルム大会で、ユーゴが激しく非難され、欠席のまま、同組織から除名された。
ユーゴは早くからソ連をお手本とした社会主義建設に取り組み、コミンフォルム創設大会でも、
ソ連にかわって、一刻も早いソ連型社会主義への移行を呼び掛けた。ソ連の最も忠実な
同盟国と見られていただけに、ソ連とユーゴの対立が世界に与えた衝撃は大きかった。
なぜ、こういったことが起きてしまったのか?
1947年11月〜12月、ユーゴはソ連に先駆け旧枢軸諸国のブルガリア・ハンガリー・
ルーマニアと友好協力相互援助条約を締結。12月に、アルバニアから専門家を
引き揚げるようソ連に要請する。1948年1月、ブルガリアのディミトロフ首相が、
ユーゴとの合意に基ずいて、両国に、ハンガリー・ルーマニア・アルバニア、
さらには、共産党が激しいゲリラ闘争を展開していたギリシャを加えた広域バルカン
連邦構想を掲げると、スターリンは、ただちに、ユーゴとブルガリアの代表をモスクワに
呼び寄せ、同案にかえて、ブルガリアとユーゴからなる連邦形成を促したが、
1948年2月19日の政治局会議において、ユーゴは、このスターリン案の拒否を決定する。
同案を受け入れることで、ユーゴに対するソ連の影響力が、ソ連に忠実なブルガリアを
介して増大することを恐れたのが理由。そして、アルバニアのユーゴ連邦への吸収を、
好機が訪れる迄待つようスターリンが忠告したにもかかわらず、ユーゴは、自国の7番目
の共和国になるようアルバニアの説得に努めたのである。このように、1948年1月から
2月にかけて、ソ連とユーゴの間で、バルカン連邦構想、およびアルバニア問題をめぐって、
深刻な対立が生じた。