モロトフは、チトーが3月か4月に訪ソすれば、スターリンは、歓迎するであろうと
この時期述べており、さらに、前年9月の第二回ユーゴ人民戦線大会におけるチトー演説を、
3月にソ連で出版する準備が進められていた。3月初めには、まだ、話し合いの余地が
残されていたといえる。
しかし、1948年3月1日、ユーゴ共産党拡大政治局会議における決定が、両国を
決定的対立に追いやってしまう。同会議の討議内容が会議に出席していた親ソ派の
ジューヨヴィチ政治局員によって、ソ連の最高指導部に伝えられたのだった。
ソ連が自国の利益を押しつけるために、ユーゴに約束した武器供与や経済協力を意図的に
遅らせている点が、同会議で指摘された。この点へ対応策として、自力で、国防力を強化し
経済発展を推進していく方針が打ち出された。さらに、ユーゴが、これまでの慣習を破って、
ソ連顧問団への経済情報の提供を拒むようになったことから、ソ連はユーゴの対ソ政策に
変更が生じたものと判断し、3月18日から19日にかけて、軍事顧問団と民間人専門家の
引き揚げを通告。
ソ連はその後、書簡を通じて、ユーゴ批判を強めると同時に、ユーゴ国内の親ソ派を使い
指導部の転覆を企てる一方で、ユーゴ共産党が、親ソ派を逮捕粛清して党内の結束強化
に乗り出したことから、対立はさらにエスカレートしていき、ついに、1948年6月、
コミンフォルム大会における公開の場でのユーゴ非難と除名という事態を迎えたのだ。
近隣の東欧諸国との経済関係は閉ざされ、加えて、この時期は、天候不順で不作が続き、
農業が大きな打撃を受けていた。第一次5ヶ年計画(1947〜1951)は、事大主義だとされ
世界は、チトーやその側近の協力者に対する個人非難を目にした。 チトーはこれに抵抗し、
「コミンフォルム主義者」を、アドリア海の強制収容所に送った。クロアチア共産党の
元党首アンドリヤ・ヘプラングは、逮捕され、自殺したと噂された。元パルチザンの
参謀長であったヨヴァノヴィッチ将軍は、銃殺された。7月には、戦後初のユーゴスラビア
共産党大会でチトーは、2300人の代議員に訴えかけ、9時間にわたって演説を行った。
彼らはチトーを讃えた。しかし、他のコミンフォルム諸国では、激しい
反チトーキャンペーンが展開されていた。
「言論の自由はない」・・・・とP
「特別な警察がある。警官は全員、国内少数派のセルビア人で占められていた。
少しでも気まずいことを言うと、目をつけられて、どこかに連れて行かれる。」
ソ連から離れたユーゴは、この後、独自の社会主義への道を歩み出すのだった。
Dubrovnik(ドゥブロヴニク)にて
画像提供:クロアチア政府観光局