チトーは、ロンドン亡命政府及び国王を承認しないばかりでなく、ユーゴスラビア人民解放

反ファシスト会議(AVNOJ)を、唯一の正当な権力とすると、モスクワ外相会談宛に伝え、

1943年11月29日の第二回AVNOJを開催して、同組織を、ユーゴ最高立法行政機関と

位置づけ、チトーを首相とする臨時政府(全国解放委員会)を樹立した。

 

それでもイギリスは、テヘラン会議において、チトーのパルチザン支持を明確にし、

チトー援助と旧王党派チュトニク部隊のミハイロヴィチ大佐への援助取り下げが決定された。

ロンドン亡命政府とチトー勢力との連立政権樹立というチャーチルの戦後構想に基づき、

1944年6月16日、チトーと亡命政府の首班であるシュバシッチの間に協定が成立する。

この協定で、

 ・ロンドン亡命政府がAVNOJをユーゴ国内における唯一の政治的権威と認めること。

 ・パルチザン部隊を正式の軍隊として承認すること。

 ・君主制にするかどうかは、戦後決定すること。

 ・連立政権には、民主的で進歩的な人々を亡命政府から参加させること。

などが、取り決められた。ユーゴ共産主義勢力に有利なこのとりきめは、同年11月1日の

第二次チトー・シュバシッチ協定に継承されていく。この時には、ユーゴスラビアへの

国王帰還の前に政府の信任を問う国民投票を行うことが決定された。

 

1945年3月7日。シュバシッチを含む亡命政府3人のメンバーがチトーの政府に合流。

セルビア人・クロアチア人・スロベニア人の各一人を含む摂政会議が行われて、

チトーが首相に、シュバシッチが外務大臣に就任する。君主制は廃止され、新憲法が採択された。

この連立政権において、26の閣僚ポストのうち23を共産党が占めたものの、共産党が

戦時中に内戦を通じて確立した政治権力を、英ソの圧力をうけたため、国際的承認を得るため、

しかたなく、ロンドン亡命政権の穏健派に一部譲った結果でもあったようだ。

 

1945年11月11日。政党別でなく、単一候補者名簿方式で憲法制定議会選挙が実施された。

共産党率いる人民戦線が、連邦院で90.5%、民族院で88.7%という高得票率を獲得し、

圧倒的な支持を得る。そして、同年11月29日、この選挙の結果を背景に、

「ユーゴスラビア連邦人民共和国」の建国が宣言され、チャーチルの戦後構想は、

完全に打ちくだかれたのだった。

 

1946年1月31日。スターリン憲法に範をとった社会主義新憲法が発布される。

第二回AVNOJ決議に基づく連邦制の原則にのっとり、いち早くユーゴは、他国に先駆けて

社会主義建設に乗り出す。スロベニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ・セルビア・

モンテネグロ・マセドニアの6共和国とセルビア共和国に属するヴォイヴォディナ自治州、

コソボ・メトヒヤ自治区(63年憲法により自治州となる) からなる連邦制をひく。

ここにチトーのユーゴスラビアが誕生した。

 

 

秋のGospić・(ゴスピチ)

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All 画像提供:クロアチア政府観光局

 

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