Moja sreća je sa vama

My happiness is with you

 

わたしの幸せはあなたがたとともにある

Lady Moon   rose6b

 

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ザダールのChurch

 

第二次世界大戦下のバルカン。ユーゴ・ギリシャ・アルバニアでは、旧体制につながる勢力と

共産系のパルチザン部隊が、抵抗運動を展開する。ユーゴとギリシャでは、

ロンドン亡命政権・ 枢軸側の傀儡政権・国内レジスタンスが主要な勢力で、その中でも、

共産系のパルチザンが、圧倒的に優位を誇り、国内の大部分を制圧していた。

 

チトーが、山岳地帯を駆ける映像をみたのは、つい、先日のことのように思える。

 

「チトーの嫌いな人はいない。彼は、誰からも敬まわれる」・・・とP

 

パルチザン部隊は、1941年6月22日、ドイツ軍のソ連攻撃・バルバロッサ作戦が開始されると、

占領軍への武装蜂起を全土で呼びかけ、6月末、チトー Tito,Josip Broz (1892-1980)を、最高司令官

とするユーゴスラビア人民解放パルチザン部隊の最高司令部が首都ベオグラードに設置される。

しかし、9月になると、首都での活動が困難となり、解放区であるセルビア西部へ、移動した。

1944年秋、ベオグラードを奪還する迄、ボスニアやモンテネグロの山岳地が活動の主要な舞台

となった。ところで、パルチザンとゲリラは、どこが異なるのだろうか?パルチザンとは、

フランス語で“武器をもって立ちあがった住民の遊撃隊”という意味で、ゲリラに比べると、

住民に支持されているというニュアンスが強い言葉だそうだ。(池上彰さんの解説による)。

パルチザンは、貧しい農民達に戦後の土地改革を語り、民族・宗教・言葉の違いを超えて、

ユーゴ解放のため、敵と戦う必要性を訴え続け、山岳地での困難な戦闘のなか、

多くの人々の支持をとりつけたという。

 

ところで、バルカンの戦後政権を決定づけたのは、各国内の政治勢力関係だけではない。

米英ソ連合国間の戦時外交であり、これは、戦況の推移と関連して展開されたという。

ソ連は、断固たる態度をとったルーマニアやポーランドに反して、ユーゴに対しては、

英米への配慮を優先させた。ロンドン亡命政権との外交関係を維持及び旧王党派の

チェトニクを支持するようチトーに再三注意をうながしたという。そして、1942年3月、

ソ連は、共産主義のパルチザンが西側を刺激していることに懸念を表明。反ヒトラー勢力

の結集が最も重要であるとして、チトーにチェトニクとの国民戦線結成を迫ったのだった。

1943年10月のモスクワ外相会談。ソ連は、亡命政権と国王の排除を主張している

チトーの立場を代弁することはなかった。

 

「あなただって、もしかすると王族かもしれないわよ」・・・Lady Moon

「王制という考え方そのものを、チトーは取り去ってしまった」・・・P

  

イギリスは、フランス上陸作戦を延長しつつ、地中海陽動作戦を展開する必要上、

ギリシャとユーゴのレジスタンス運動を重要視した。パラシュート部隊を

1942年秋にはギリシャ、43年春にはユーゴに派遣。共産党系・非共産党系

レジスタンス運動双方の協力と統合に尽力した。    しかし・・・

 

風雪の太陽

チトー率いるパルチザンがドイツ軍と戦った

スチェスカ河の戦いを描いた映画

 

 

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