江川太郎左衛門からのMission
天保9年(1838)8月、くま大名はあるMission遂行の為、伊豆韮山まで
新型兵器を受け取りにくるようにとの命を授かり、江川COMMAND。
江川邸を訪れた後、反射炉にて武器を受け取った。以下は、
Mission遂行に必要な情報である。

“アメリカを茶菓子に呑んだ上喜撰たった四杯で夜もねられず”
ぺりー艦隊が浦賀に現れた時の狂歌のひとつである。アメリカと飴をかけ、
蒸気船と有名な煎茶の銘柄である「上喜撰」をかけたものだ。
カフェインの効いた茶を4杯も飲んだら目が冴えて眠れない。
嘉永6年(1853)6月、黒船来航、日本の運命をかえた出来事である。
そして、江川太郎左衛門殿が歴史の表舞台に登場となるのも、
この時といえるでしょう。ところで江川殿は、くま大名を襲名ではなく、
実名にて呼んでくださっております。わたくしLadyMoonにも、
英龍殿と呼ばせてくださいませ。
世直江川大明神 英龍殿は、文政7年(1824)から、父上である英毅殿の
お仕事を補佐しながら、天保6年(1835)、韮山代官に就任されました。
韮山代官は幕府直轄領を支配する代官のおひとりです。支配地域は、
伊豆国(現静岡県)・駿河国(現静岡県)・相模国(現神奈川県)・武蔵国
(現東京都、埼玉県)・甲斐国(現山梨県)でございます。
英龍殿が代官に就任された天保期、日本は全国的な飢饉に見舞われて
おりました。天保7年(1836)7月、甲斐国にて、 農民たちによる大規模な
一揆が発生します。甲州騒動とも呼ばれたこの一揆は、幕府が厳罰で臨んだ
ことにより、いったん鎮圧されたものの、甲斐国という天領にて、幕府代官の
支配がうまくいっていないことを露見する羽目となりました。そこで、
天保8年(1837)、英龍殿は、配下の方と共に、行商人に身をやつし、
身分を隠して甲斐・武蔵・相模を視察されました。甲斐国では、代官の配下が
地元有力者と結託して、私腹を肥やしたりと、テレビ水戸黄門で観ることが、
現実におきており、それが、大規模な一揆につながったという結論に達したと
聞いております。天保9年7月、特に統治が困難といわれる甲斐国都留郡が、
韮山代官所に編入されます。しかし、前年、事前に甲州微行を行い、
調査を済ませていた英龍殿は、有能な手代を派遣して、困窮した村方に対し、
長期低金利による貸付金を定めたり、貧農層との対立を緩和する政策を
実施されたりと難しいとされた地域の支配も、英龍殿の御蔭で軌道にのり、
民政におきまして、名代官としての名声を得るに至ったのでございます。
英国のアジア支配と情報ツール
当時の超大国といえば、7つの海を支配したイギリスだろう。
そのイギリス政治は「自由貿易」が主流になっており、1833年、アジア貿易を
独占していた国策会社・東インド会社が解散し、インド貿易が自由化されると
その東インド会社は、植民地インドの統治機関へと変貌する。こういった
流れをうけ、1837年、貿易振興の前提条件としての蒸気船郵船会社である
P&O社(Peninsular and Oriental Steamship Company)が、設立される。
Main Dutyは、書簡の定時搬送である。軍事情報が最優先し、外交情報、
商況と続く。郵船は当時、唯一、最速の情報伝達手段であった。帆船は、
潮流や風向きに大きく左右されてしまう為、蒸気船が不可欠なのだ。
蒸気船を使う国際郵船事業は、イギリスの独占状態でもあった。P&O社は、
1837年、ロンドン南の軍港サザンプトンから大西洋を渡り、イベリア半島の
ジブラルタルを結ぶ、地中海に入り、1842年のアヘン戦争終結時には、
スエズを陸路横断し、南の紅海からカルカッタまでを結ぶ。
1845年には、香港まで到達。1849年には上海に支線を延ばし、
1853年には、シンガポールから南下するオーストラリア路線を完成した。
なお、船舶は、戦時に海軍に編入するため武装していた。P&O社は、
イギリスのアジア支配にとって生命線だといえる。ところで、イギリスの
アジア経済支配の要といえば、植民地インドの肥沃なべンガル地方の芥子
から作るアヘンだ。そのアヘンは、東南アジアと中国に大量輸出された。
専売制で生産されるアヘンはインド植民地の貴重な税源となる。アヘン専売
収入の一部を、インド植民地軍の維持経費にまわした。そして、
アヘン戦争(1839〜1842)では、そのインド植民地軍が派遣軍の主体
を担う。尚、植民地財政の黒字部分は、銀塊のままイギリスへ送られた。

アヘン戦争(1839〜1842)と香港 開戦直前の貿易統計(中英間)
によると、イギリスが輸入する中国産紅茶の約240万ポンド(英貨)に対し、
イギリスのアヘン密輸出は、約340万ポンドとイギリスの大幅な黒字である。
1839年3月、アヘン厳禁派である林則徐が欽差大臣(特命大臣)として
広州に着任した。イギリス貿易監督官に貿易商の手持ちアヘン没収を
通告する。貿易監督官は、 これを貿易商に通達し、5月には、
アヘン2万余箱が提出された。一箱は 約64キログラム。林則徐は没収した
アヘンを、海浜の村に運ばせて、生石灰を投入、アヘンを焼却したところ、
化学反応の白煙が立ち上った。このアヘン没収・焼却のニュースが
1839年9月、ロンドンに着くと、アヘン輸出の全面禁止を警戒した
イギリス政府は、翌10月に出兵を閣議決定する。9月には、現地では既に、
イギリス軍艦ボラージュが中国側に発砲し、実質上、戦闘状態に入っていた。
派遣軍が中国に到達したのは、1年後の1840年6月のことである。
その派遣軍の多数が植民地インド軍の兵士だった。海戦では、圧倒的優位なイギリス派遣軍も、
地上戦では中国民兵に敗れ、戦争はイギリス軍の予想に反して長期化する。そこで、イギリス軍は、
食料など物資運搬ルートを封鎖する作戦へと変更した。北京近郊につながる大運河と
長江が交差する鎮江を制圧し、勝利を収めると、旧都南京まで船を進め、清朝全権を呼びつけ、
1842年8月、南京条約を結ばせた。敗戦に伴うこの条約は �’綵�金の支払い �⇔療擲箴�(香港島)
��5港の開港 である。そして、アメリカの東インド艦隊は、この香港を主な補給基地として
日本派遣体制を整えるのである。
アメリカの捕鯨 アメリカ・マサチューセッツ州南部にあるプロビンスタウンは、
1620年、メイフラワー号が上陸した歴史的な街である。又、18世紀には、
捕鯨基地として繁栄した。ここでは、現在、ホエールウォッチングが、
4月中旬から10月まで行われており、観光客を乗せた船が出航していく。
また、ケープコットの沖合い50km大西洋上に浮かぶナンタケット島も、
17世紀から18世紀には、アメリカ捕鯨産業の前線基地として栄え、
その伝統を培ってきた。メルビルの小説「白鯨」(1851)にも登場し、
マッコウクジラの歯や骨で作られた工芸品に出会うことができる。
ボストンからフェリーがあるようなので、そのうち、訪ねてみたいと思う。
1791年、アメリカ捕鯨船がケープホーンを回って太平洋に出漁。
1815年のウィーン会議から1860年頃までが、太平洋捕鯨の
黄金時代であり、1840年後半が最盛期にあたったという。日本近海
にも捕鯨船が姿を現し、あのジョン万次郎も、1841年、土佐沖で難破、
西に流され鳥島に漂着。アメリカ捕鯨船ジョン・ハラウンド号に救出された。
ところで、捕鯨の主目的は、鯨油の確保である。鯨油は、照明用のランプ油に利用され、クジラの
ひげや骨は装飾品等に加工し、肉は海に捨てる。欧米諸国にある工場フル操業で、需要が伸び、
欧州にも輸出されたという。1846年の統計では、アメリカの出漁捕鯨船数は、延べで736隻、
総トン数23万トン、投下資本は7千万ドル、総従業員数は7万人である。年間にマッコウクジラと
セミクジラを合わせて1万4千頭を乱獲する時代を迎えて いた。日本近海で操業する
アメリカ捕鯨船は、約300隻。難破して漂着する捕鯨船も増えた。イギリス(ここもしっかり捕鯨を
やっていた)も含め、これだけ乱獲実績のある国が、日本の捕鯨についてとやかくいう権利はないと
言い返してやったことがある。先週だったか、現在、捕鯨を行う日本の某所で捕獲されたクジラ肉
から水銀が検出されたという新聞記事を読んだ。ならば、同じ海を泳いでいる他の生き物も、
水銀を飲み込んでいることであろう。昔、日本の捕鯨ではクジラは捨てる部分が全くなく、すべて
有効利用していたというからすばらしい。
こちら江川Mission遂行のための参考書籍
幕末開国について詳しく書かれております。