老中・水野忠邦    IMforce6 

 こういった世界情勢の中、幕府の対外政策はどうなっていたのだろうか?

 鎖国下、外国情報の収集は長崎である。幕府側の責任者である

 長崎奉行は、カピタンと呼ばれるオランダ商館長に多くの海外情報を

 提出させていた。これをオランダ風説書といい、鎖国の日本において

 貴重な情報源となった。1839年、アヘン戦争の情報が入ってからは

 詳細な情報を提出させるようにもなる。これを、別段風説書という。

 さらに、長崎には唐人屋敷があり、中国商船が定期的に入港したため、

 商品のみならず、貴重な情報を もたらした。これは、唐風説書という。

 ところで、日本にいち早くアプローチしたのはロシアだ。幕府、初めての

 対外令は、来航ロシア船に対し、厳しい臨検検査を行うことを定めた、

 寛政令(1791年)である。そして、大幅に取扱いを緩和し、難破漂着した

 ロシア船に薪水を供与する内容の、文化令(1806年)と続く。ここまでは

 温和だったようだが、1808年イギリス軍艦フェートン号が長崎にやってきた。

 長崎奉行の制止を無視して上陸した上、牛などを略奪する。イギリス軍

 来航目的は、ナポレオン戦争の一環として出島に立つオランダ国旗を

 引き降ろすためだった。長崎奉行は責任をとり自刀。この事件は、幕閣に

 大きな衝撃を与えた。1823年、オランダ風説書を読んだ日本人は、

 イギリスのインド植民地化(ベンガル地方は1773年)を知り、イギリス

 脅威論が増強される。そこで、

 

 

 

IMforce7 異国船無二念打払令(1825年)が公布される。これは、異国船が

 沿岸に現れたら何が何でも打払えという強硬策だ。この時想定される

 異国船とは超大国イギリスである。対外令というものは海岸をもつ諸大名と

 天領に命じる国内措置であるのだが、オランダ商館長から諸外国へ伝わり

 実質的に日本の対外政策となった。当時、幕府には、軍艦も海軍もなく、

 外国軍艦に対抗できる唯一の手段は、沿岸部に砲台を築き大砲を備える

 「海防策」しかない。大砲の弾丸は着弾時に炸裂しないボール状鉄の玉で、

 破壊力の小さいものが殆どだった。この強硬令下の1837年、一隻の

 外国船が浦賀沖に姿を現す。浦賀砲台から発砲をうけた為、帰帆した後、

 鹿児島に入港しようとしたところ、再び、発砲をうけ帰帆した。翌1838年、

 オランダ風説書が、「日本人漂流民の送還に、わざわざ武装を解除し

 赴いたが理不尽なふるまい大いに難渋」という情報をもたらす。風説書で、

 その異国船は、アメリカ商船モリソン号と判明。この時、モリソン号が

 イギリス船とする誤報が混入し、イギリス海軍が報復しに来るのではと、

 イギリス脅威論が再び増強される。 

 

 

EgawaAft3 時の老中・水野忠邦は、各部署に意見を求める。評定所の大半は

 打払令を続行すべしとした。しかし、林大学頭(はやしだいがくのかみ)は、

 「武装解除し来航した船を打つのは無法である」と、発砲行為を批判する。

 1839年8月、清朝の林則徐による外国商人手持ちアヘン没収事件

 (同年5月の)を伝えるオランダ風説書が入る。幕閣は、アヘン禍一掃の

 為の密輸取締政策は当然であるとした。1840年夏、その清朝とイギリスの

 軍事衝突に関するニュースが入る。海戦では、海軍をもたない清朝側が

 明らかに劣勢であることが判明。そこで、老中・水野は、イギリス海軍が

 長江を遡り、大運河と交差する中国最大の食料運搬ルートを封鎖すると

 判断し、それを、江戸に入る回船ルート封鎖に読み替えた。浦賀水道で、

 外国軍艦が一隻でも封鎖行動に出れば、物資運搬が阻止され、大江戸は、

 パニックに陥る。1842年8月28日、老中・水野は、強硬な打払令を徹回し、

 穏健な天保薪水令に政策転換した。それは、

 南京条約が締結される前日のことだった。

 

 

 

Odaiba2浦賀奉行所 1720年、幕府は下田奉行所を廃止し、浦賀奉行所を置く。

 その組織は、江戸の町奉行所などと同じ内政用であるが特殊な任務として、

 回船の荷改め(検査)海難救助の二つが課されていた。江戸の食料や

 諸物資の運搬をする回船(千石船、菱垣回船等の呼び名もある)は、

 江戸に入る前、必ず浦賀奉行所で荷物の検査を受けるが、実際の仕事は、

 回船問屋に委託していたらしい。その回船問屋を奉行所の与力や同心が

 監督する。江戸湾を北上する回船は、西浦賀の突端にある灯明堂を目に

 して浦賀に到着したことを知る。回船は沖合に停泊、これを、漁師が副業

 でやっている引船で、西浦賀の船番所(奉行所の支所)迄引いてくる。

 そこで、奉行所の役人が乗船し、検問を行うという形だ。回船は、西回りと

 東回りの2方面からやって来る。西回りは、大坂で集荷した全国の物産を

 江戸に搬入する菱垣回船や樽回船。昆布・鰹節・醤油・味噌などの食品類、

 陶器や家具調度品などもある。そして東回りは、東北からの大量の米だ。

 他にも、伊豆七島行きの御用船やローカル航路の浦回船もあった。

 

 

Odaiba119世紀になると、江戸に入る回船の数は、年間約一万隻。一日平均30隻

 に上った。回船は積み荷の石高に応じ石銭(10石につき3文)と乗組員数

 に応じた問屋料(一人当たり銀一匁八分)を納めねばならない。回船の

 平均的 乗組員数は13人で、西岸(西浦賀)には回船問屋が約100軒も

 あった。 入江の南入口付近に奉行所があり、岸に船番所、入江に沿って、

 奥に回船問屋が並ぶ。東岸(東浦賀)には、主に干鰯問屋が約20軒ある。

 干鰯とは、イワシを干して加工した肥料で、綿作が盛んな関西でべスト肥料

 としての強い需要があり、浦賀の問屋が全国の中心だった。これだけ、

 モノとひとが動く港であったから、宿屋・料亭・湯屋(銭湯)が栄えた。

 洗濯屋と称する遊郭もあったという。湯屋は江戸の半値で利用でき庶民

 最大の娯楽である。浮世絵師の広重も来訪した。また、9世紀に入ると、

 浦賀奉行所には、外国船対応という複雑な役割が加わる。外国船対応とは、

 警備(防衛)・外交である。浦賀に初めてきた外国船は、1818年の英商船

 ブラザース号、次が、822年の英捕鯨船サラセン号、1837年の米商船

 モリソン号。天保薪水令(1842)以降では、1845年の米捕鯨船

 マンハッタン号、1846年の米東インド艦隊コロンブス号とビンセンス号、

 1849年の英軍艦マリーナ号、そして、ペリー艦隊である。

 

 

Odaiba3 なお、1844年、オランダ国王から親書が届き、“1842年アヘン戦争が

 清朝の敗北に終わった。外国船が日本に開国を求めて来航するだろうから、

 十分な準備を整えられるべし”。この年、奉行所は増強される。奉行は、

 江戸詰と浦賀在勤の2名制となり、与力も10名 から20名、同心が50名から

 100名へと増員される。1845年からは、異国船の来航を想定し、長崎から

 オランダ通詞1名を浦賀に配置する。浦賀奉行所は軍艦をもたず、戦闘要員

 もおらず、軍事行動をとれる体制にはない。各所に見張りを立てて外国船の

 姿を見たら知らせる体制をとるのが静一杯である。外国船警備は、奉行所

 だけでは、間に合わない。1810年、会津藩に三浦半島警備の任務が

 与えられて、少しずつ、強化されたという。

 

 ところで、この三浦海岸、わたくしにとって懐かしい場所なのです。父上の

 勤務する大企業の保養所があった為(今でもある)、小学校1年から6年生迄

 夏は必ずこの三浦海岸に海水浴に来ておりました。海水浴といえば

 三浦海岸。 三崎駅前にころがっていた熟れたスイカが懐かしい。サマーは

 すっかり;湘南ギャルでございました。

 

 

 

ペリー来航時には、譜代大名の四藩が江戸湾の固め(警備)を担っていた。三浦半島側が

川越(埼玉県)・彦根(滋賀県)。そして房総半島側が、忍(埼玉県)・会津(福島県)である。

四藩とも、海のない内陸の藩である。老中から浦賀奉行所へは命令が届いても、浦賀奉行所

から四藩へは、直接命令を下すことはできない。非常時に対する動員及び命令系統は、確立

されておらず、海防策としては、江戸湾の主要個所に台場を築いて、大砲を装置する方針が

とられた。

 

三浦半島の突端、海を一望する三崎においた見張り所から、浦賀奉行所に

伝令が飛び込んできた。

「およそ、三千石積みの舟4隻、帆柱3本立てるも帆を使わず、

前後左右自在にあいなり・・・

あたかも、飛ぶ鳥のごとく、たちまち見失い候・・・」

 

黒船来航。

 

 

 

 

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