redragon Dracula ヴラド・ツェペシュ(1431?〜1476年)Vlad��

 

CastelulBran

 

この頃のワラキアは、中央集権でなく、貴族たちが次々と頭をもたげ、君主の地位を脅かし、

世襲制であっても長子世襲ではなく、一族の誰が君主になるか、血なまぐさい争いが

繰り広げられていた。ヴラド自身も大公の子でありながら、弟のラドウとともに17歳まで、

コンスタンティノーブルに人質として幽閉されていたのである。彼らの父・ヴラド2世は、

トルコ軍と勇敢に戦った功績で、当時の神聖ローマ皇帝からドラゴン勲章を授かった上、

トランシルバニア2地方の領主に封じられる栄誉を与えられた英雄だ。しかし、味方の

裏切りにあい殺されてしまう。ヴラドは17歳の時、脱出に成功。スルタンに気に入られた

弟のラドウは、この時、兄と一緒にはいなかった。

 

1456年、晴れて領主に返り咲いたヴラドにとって、急務は中央集権の強化だった。

この年のある日、チルゴビシテ宮殿に、ワラキアの貴族や聖職者たちが数千人集められた。

宴もたけなわ。ヴラドは、「これまで何人の主君にお仕えしましたか?」と尋ね、貴族たちは

お酒で口が軽くなっており「10人でしょうか」「わたしなど、30人は下らないですよ」。

最少でも、8人には仕えていたが、ヴラドは彼らの傲慢さや過去を許す気がなく、

「お前たちの恥しらずな反目と陰謀のせいで、国力が低下した」といって、

10人以上に仕えた貴族をすべて捕えて串刺しにした。処刑者は500人を超えたという。

 

次に、ヴラドは、憎いトルコに反撃を開始するため、ガルナシュ山頂にポイエナリー城を築く。

その際、この宴で捕らえた自分の父や兄を殺した貴族やその家族を働かせ、水やパンも

与えられず毎日重い石を抱えて働かされた彼らは、飢えと過労で倒れ、死んでしまう。

その後、この1400段の階段をもつ難攻不落のポイエナリー城を拠点とし、ヴラドは次々と

トルコの砦を落していくのであった。

 

スルタンも、数万の兵を率いてワラキア公国に侵入。トルコ軍の兵力に比べるとワラキア軍は

少数だが、神出鬼没のゲリラ戦と、徹底した奇襲と殺戮でトルコ軍を翻弄し、勝利を収める。

そして、ヴラドは、貢納金が一万ドゥカットに引き上げられたのを機に、その支払いを拒否。

1461年、2人のトルコ人使節が、ドナウ河畔のある港にやってきた。表向きは和平交渉

だったが、実はスルタンからヴラドを捕らえるようにとの密命を受けていたのだ。気付いた

ヴラドは、使者を酒と御馳走で油断させ、彼らが寝込んだすきに、多数の兵士を港町に送り、

野襲をしかけた。この時、二万三千のトルコ兵が殺され、二万が捕虜となる。2人の使者を含め、

捕虜全員が生きたまま串刺しに。二人の使者はヴラドを欺いた罪として、とりわけ長い棒に

さされた。無残な死体にはカラスがたかり、周囲には死臭がたちこめ、なかなか死ねないで

苦しみ悶える者、カラスにつつかれ悲鳴を上げる者、かっと目を見開き呪いの言葉を天に

叫びながら死んでいく者、町はずれの平野で、串刺しは長さ3キロ、幅1キロにわたり延々と

続き、進んできたトルコ兵は、身の毛もよだつ光景にすっかり怖気ずき、しばらくやって

こなくなった。串刺しは功を奏しましたね。しかし、さきのフニャデイ・ヤーノシュや

ミルチャ公と比べると、なんともド派手である。

 

1462年、オスマンの攻撃が再開する。25万のスルタンの大軍に攻められ、ヴラドは

トランシルバニアに逃亡した。この時、オスマン軍の指揮を取ったのは、なんと、

ヴラドの弟ラドウだった。命からがらトランシルバニアにたどりついたヴラドを

ハンガリー王は監禁する。その後、12年間、ヴラドは牢獄で過ごす羽目になってしまった。

その間、スルタンお気に入りの美青年ラドウがワラキア大公の座に就任。

トルコに監禁されていた時から、スルタンとラドウはすっかり出来上がっていたようだ。

それにしても、このスルタンの下、デウシルメ制度で徴用されたバルカンの男子、

特に、かわいい子は、どうなってしまったのだろうか。

 

1474年、ハンガリー王の妹を妻に迎えて12年の幽閉から解放されたヴラドは、

1476年、弟ラドウを戦いで破り、再び、ワラキア大公の座に返り咲くのである。

しかし、愛する美青年ラドウの危機に、取り乱し・振り乱したスルタンは、

大軍を率いてワラキアに侵入する。迎え撃つヴラド。

これが最期の戦いとなってしまうのだった。

 

冬のブカレスト郊外。ヴラドは小高い丘から、ワラキア軍がオスマン軍を迎え撃つのを見ようと

戦況を眺めていた。しかし、いつのまにかワラキア軍に取り残され、周囲は敵だらけ。

オスマン兵の死体の服を身につけ脱出し、自軍に追いついたヴラドは自分の格好を忘れて

駆け寄った。が、ワラキアの雑兵たちは、オスマン兵の格好をした者が、自分たちの大公だと

気がつかず、いっせいに飛びかかり、ヴラドは自分の兵たちの槍に胸を突かれて、息たえたのです。

  

ヴラドが死去した1476年以降、ワラキアはオスマン帝国のただの1属国となってしまいます。

   

ヴラド最初の妻は、ワラキア貴族の娘だったが、夫の残虐ぶりで精神に荒廃をきたしたとか。

不倫を見つかり虐殺されたとも、川に身を投げたともいわれている。幸せな結婚生活では

なかったようだ。人質の苦労を共にした弟さえも敵、周囲は裏切り者の貴族だらけ、誰も信用

できず、孤独なひとだったかもしれない。わたくしがお傍におりましたら、いくらでも

お手伝いを致しましたのに・・。

    

なぜ英雄が、悪の代名詞になってしまったのか?地元に住むザクセン人(ドイツ人)を

串刺しにしまくったことから、外国で悪い噂がたってしまったと聞いております。

 

串刺し刑は当時、ごく普通に執り行われていた処刑法。冷酷か残虐かは、

時代背景とその人を取り巻く状況等を幅広く考察しないと、断定はできないだろう。

ヴラド・ツェペシュが領民に愛された領主であったことは間違いないのだから・・・。

 

新聞記事によると、毎年60万人の観光客がブラン城を訪れるという。

 

吸血鬼ドラキュラを宣伝したのは西欧である。ヴラド・ツェペシュこと吸血鬼ドラキュラは、

東欧と西欧のAllianceであり、死んでからも明るく大活躍をする。外国人観光客を魅了し、

外貨を導入し続け、国を豊かにする素晴らしい領主様ではないか。

 

 

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550年の時を超え、ヴラド・ツェペシュに会いに行こう

 

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