ドラキュラは何処に ![]()
昔、ある映画を観た。ドラキュラが長ーい眠りから目覚めると、社会主義の国になっていた。
召使いのレンフィールドが、「ご主人さま、表にひとがおります。市の体育委員のようですが・・」。
中に入ってきた体育委員は、「ここを国営の体育館にし、コマネチが練習します。
今すぐ立ち退きなさい」・・居場所を失ったドラキュラとレンフィールドはニューヨークへ向かう。
先月新聞で、“吸血鬼ドラキュラが、故郷での居場所を失いつつある”という記事を読んだ。
それによると、�爛疋薀�ュラ城″で知られるルーマニア・トランシルバニアのブラン城が、
現代風テーマパークに生まれ変わろうとしている。城は長年、郷土の文化及び歴史を
今に伝える博物館として政府が運営してきた。しかし、今年5月に管理権が王族の子孫に移り、
“脱ドラキュラ”を目指す大幅な改装が、始まったという。ドラキュラ離れは、
「私の親類にあのような怪物はいない」という子孫であるオーナーの強い意向だそうだ。
ドラキュラと私には、自宅の敷地内に先祖代々の墓・歯並びが似ているという共通点がある。
そして、美しい森と一日の日照時間が短かそうなところが、在りし日のくま大名邸を想わせ、
以前からブラン城が欲しくてたまらなかったのでございます。それも、ドラキュラのイメージが
あるからこそ、世界中のどの城よりも魅力的で購入したい物件 だったのに、もう興ざめなのです。
コマネチのウルトラCでは追いつかないルーマニア1の有名人Dracula伯爵不在の城では、
観光客がこなくなってしまうのに・・・。
オーナーの気持ちはよくわかる。ドラキュラのモデルになったヴラド・ツェぺシュは、
15世紀に実在したワラキア公国の領主。反オスマン帝国の旗手であり、英雄なのだから。
ブラン城には、数日間、幽閉されていただけだという。ヴラドは法律に背く者や敵に、
厳しい姿勢で臨み、串刺し刑を好んだことから、19世紀のアイルランド人作家
ブラム・ストーカーの創作意欲をかきたてた。ブラム・ストーカーは、このヴラド・ツェぺシュと、
ハンガリー血染めの伯爵夫人エリザベート・バートリー、ジャンヌ・ダルクと共に戦った
フランスのジル・ド・レ男爵、そして東欧に存在していた吸血鬼伝説を組み合わせて、
あのドラキュラ伯爵を創り出したのである。 きれいなお城の怖い話
ところで、ヴラド・ツェぺシュとは、どんなひとだったのだろう。まさかど王子と同じく、
わたくしの好きなタイプであるからして(^-^)、当時のワラキア公国を取り巻く状況を
考察しながら、あらためて真の姿を見つけ出したい。
オスマン帝国の進撃13世紀末、小アジアに成立。その後、400年から500年以上に
わたり、バルカン半島を支配するのだが、なぜ、このような長期にわたって、現在、火薬庫で、
多種多様な人々が分散して居住する地域を支配することが可能だったのか、バルカンの人々が
民族を意識したのは、19世紀に入ってからだということだが、
元領主として興味があるところなので、調べてみた。
オスマン朝は、14世紀中頃、ビザンツ帝国の内紛を期に、バルカンに進出。
1389年コソボの戦い、1396年ニコポリスの戦いで、次々とバルカンの軍隊を破ったのち、
1453年には、一千年に及ぶ帝都・コンスタンティノーブルを陥落させ、ビザンツ帝国を
滅亡させる。セルビア・ブルガリア・ギリシャ北部を支配下におき、さらに、15世紀末迄に、
ボスニア・アルバニア・ワラキア・モルドバ・ギリシャ南部を含むバルカン半島を征服するに至る。
たくみな統治の仕組み?オスマン帝国は、スルタンを頂点とし、中央集権的統治制度を
作り上げたが、征服したバルカン半島を徹底的に破壊して支配したわけではなさそうである。
支配下においた諸民族に対して宗教別に区分し 一定の自治を認めたり、トルコ人だけでなく、
さまざまな民族出自のエリートが統治にあたったりした。
帝国の民は、ムスリムかキリスト教徒かを問われず2つの階層に区分された。
アスケリー 軍事や政治のエリート層で免税されている人々
レアーヤー 農民・手工業者・商人層で税の負担者
※但し、非ムスリムには人頭税が課される。
<ティマール制>は、帝国の軍事及び行政の基礎に捉えられており、スルタンから与えられた
一代限りの軍事封土保有者であるスィパーヒーが、戦時には騎士として武装し、従士を率いて
戦場に赴く制度。また、スィパーヒーは、平時には、自分の封土の治安維持にあたり、居住する
自営農から、穀物の現物税を徴収する代わりとして彼らを保護する責任も負っていた。その為、
バルカンの農業生産を維持する、経済上の重要な制度でもあったのだ。
帝国の行政は、エヤーレト(州)・サンジャク(県)・カーザ(郡)に区分されている。
スィパーヒーは、戦時には、サンジャクの長であるサンジャクベイのもとに組織され参戦する。
ティマール制は、征服による領土拡大を前提としていたので、16世紀後半に入り、帝国の
領土拡大が一段落すると、社会経済上の制度としての意味が失われていき、中央集権制
の弛緩とともに、スィパーヒーは没落に至ったという。
<ミッレト制>は、帝国の民を宗教的帰属に従い、宗教共同体別に組織したもの。
キリスト教徒は東方正教徒
ユダヤ教徒
アルメニア教徒
ミッレトは、内部自治を認められ、信仰を保障されると同時に、徴税を円滑に行う支配の
道具とされた。ところで、それまで独立していたブルガリア正教会やセルビア正教会は、
イスタンブールの総主教(「世界総主教」と称される)のもとに 、東方正教会として統一
されてしまう。東方正教会総主教座は、ビザンツ帝国の都コンスタンティノーブルに
置かれていた。メフメト1世は、帝都征服後、スルタンが支配者となったことを示すため、
東方正教会総主教を“世界総主教”に就任させ、集権的教会組織を再建した。つまり、
スルタンがキリスト教徒すべての長ということなのだろう。
<デウシルメ制度>オスマン朝が、バルカンのキリスト教徒から、利発で健康な10歳から
20歳迄の男子を徴用し、イスタンブールに連れて行き、ムスリムに改宗させ、オスマン風の
教育を施す制度である。徴用された少年たちの多くは、成人すると帝国の常備歩兵軍団
であるイェニチェリ兵やトプカプ宮殿の官僚に登用された。コンスタンティノーブル陥落から
17世紀初めにこの制度が崩れ始める迄、スルタンに次ぐ地位の大宰相を務めた36人中
ほとんどが、この制度によって徴用されたバルカンの人々であったという。オスマン支配下
にあるキリスト教徒の少年にとって中枢へと出世する唯一の手段であったのだが、少年たち
の両親にとっては、大事な息子が奪われる「血税」ともいえた。地域出身の官僚や軍人の
ほうが、トルコ人よりも、地元の人々を掌握できて便利ということではないのか。つまり、
いくら中枢で出世したとはいえ、スルタンの権力を支える奴隷にすぎない。
オスマン帝国のバルカン支配は、従属国として直接統治をしたり、キリスト教徒の君主をもつ
属国として統治したり、貢納国の地位を与えたりして、巧妙に行われたのであるが、
オスマンに占領された地域であることに、変わりはない。
オスマンに抵抗したルーマニア諸公
最初に抵抗したのは、その地理的位置のため多くの危険にさらされたワラキアである。
ミルチャ老公(1386〜1418年)←公位だと思う
1390年からドブロジャに進駐していたオスマン軍を撃退しようと遠征を始める。1395年、
スルタンのバヤジト1世は、強大な軍隊を指揮しワラキアに侵入。両軍は10月10日、
クラヨバ近郊のロビネで激突。オスマン軍の執拗な攻撃とボイエリとよぶ自軍の貴族が
離反したため、ハンガリー王の庇護を求め、トランシルバニアに逃亡する。その後、態勢を
立て直し、公位を奪環するが、1415年、ミルチャは、公国の完全な自治と引き換えに、
オスマンへ帝国への貢納を認めた。
フニャディ・ヤーノシュ(1407〜1456年)
1441年からトランシルバニアの公となり、1446年には、ハンガリーの統治者となった。
コンスタンティノーブル陥落直後の1456年、フニャディは、オスマン軍とのベオグラード
の戦いで、輝かしい勝利を収め、オスマンの中欧への進出をくいとめた。1442年から
1456年に亡くなる迄、常に先頭に立ち、反オスマン十字軍の名にふさわしい戦いだった
という。 尚、フニャディの軍にはワラキアの諸侯もつき従った。
そして、フニャディの後を引き継ぎ、反オスマンの戦いを続けたのが・・・・・
参考書籍。オスマン帝国の支配(P35〜 P47)
テロ組織を打ち破る方法がないかとこの映画を観た。
オスマンを倒すため、ヴラドは魔物に魂を売り渡した。
それよりも、ドラキュラ城に日光の三猿がおります。
勝敗のカギは“見ざる・聞かざる・言わざる”?
とっても感動致しました!!
