それは、近い過去のことではない、記憶の糸をたどることにしよう。

多くの人が、人生に幻滅し、生きているのが嫌になることがある。私もかつてそういう日々を送っていた。

自分はいい子だったのに、何をやってもうまくいかず、こんな人間生きていてもしかたない、

どうやってこの世から自分自身を消滅させようか考えていたそんな日々が・・・。

 

ちょうどそんな頃、偶然、ショッパーの記事が目に入ってきた。それは、

"日光まで歩こう160キロ 主催:八王子青年会議所″だった。八王子千人同心を偲び市民で日光まで

5日かけて歩こうという企画だった。家から参加しろと言われたわけではない。なんの気なしに応募した。

本当に何の気なしだった。応募後、八王子青年会議所から電話がかかってきた。

健康診断書を提出してほしいとのことだった。「160キロを歩くのは、並大抵なことではないのです。

応募の動機は何ですか?」と尋ねられ、「子孫だから」と、あっさり答えた。

宗格院で事前説明会が開催された。30名ほどの参加者があり、仲の良かった男のいとこも一緒に参加した。

千人同心旧交会の野口会長(当時)が、千人同心についてお話をして下さって、野口会長の後方には、

千人頭の山本前会長が控えておられた。

 

真夏の明け方だった。8月16日か17日、お盆の最終日だったと記憶する。八王子市民会館前に集合。

名簿に"色川大吉″という有名人の名があった。きかん気そうな感じの方で、助手が1名同行していた。

参加者はグループ分けで各班に班長がついた。同じ歳位の女の子二人が一緒で、色川大吉先生といとこは、

別の班だった。山本前会長と子孫数名が千人頭の服装で、見送りに来て下さった。

"気をつけて行ってこい″

 

市民会館から国道16号線を北上する。朝が訪れていた。白状するが、横田基地にさしかかった時点で、

すでに根を上げていたのだ。「なんでこんなことをしてしまったのだろう」つらい・苦しいの一言だった。

青年会議所のバンが後を追いかけてきて、気分の悪くなった参加者がいたら、拾い上げることになっていた。

「絶対お世話にはなりたくない」。しかし、真夏の太陽は容赦なく照りつけ、横田基地を過ぎた頃には、

限界を超えていたのだろう。一行は日高カントリークラブに差し掛かかり、皆、無口になっていた。そして、

日高カントリークラブの脇を歩いていたちょうどその時、私は突然吐き気と耳鳴りに襲われた。

頭から血の気がひき、目の前がまっくらになり、何も見えなくなった。「しまった!」。

貧血が起きてしまった。「もう歩けない、どうか、私を許してほしい」と、倒れそうになったその瞬間だった。

不思議なことが起きた!。冷風が ぴしゃっと、私の頬を打ったのだ。あっと言う間に視界が甦り、

吐き気と耳鳴りは消滅した。「あれ?」周囲には誰もいなかった。この冷風のお陰で、倒れることを免れ、

気分が回復し、足を引きずりながら、初日の坂戸の宿になんとかたどり着くことができたのである。

坂戸の宿で頂いた狭山茶は、実においしかった。クーラーのような風、あれはいったいなんだったのだろう、

その時は考える余地もなく、眠りについた。

 

翌日、そう暑くなく、歩く距離も短くなり、景色も徐々に町のものから離れていくようになった。

昨日の無口は解消され、同じグループのメンバーで楽しくおしゃべりしながら歩くようになっていた。

だが、宮野隊長は、30人もの市民を連れていく責任感から、気を張り詰めているところがあった。

八王子青年会議所は途中地区の青年会議所と連携し、歩いてきた私達を拍手で暖かく迎えてくれていた。

 

坂戸・・行田・・館林・・いくつも宿場を通り過ぎ、たんぼの畦道を歩き、栃木市に到着し、

川沿いの古めかしいお蔵の宿に泊まった日は、江戸時代にタイムスリップしたかのように感じたものだった。

佐野市に入り、佐野厄除け大師で全員、厄除を済ませた。そして最後に、難関、今市の山越えが待っていた。

山越えは、初日と同じ位いやそれ以上苦しかったかもしれないが、"もうすぐ日光だ″最後の力を

振り絞ることができたのだろう。全員が無口になっていた中、誰かがいきなり、甲子園の歌を替え歌で

口ずさみ始めた"♪日光目の前、日光目の前、日光目の前―♪″全員があわせて歌い出した。

山越えが終わり、休憩をとっていたら、隊長さんが「ladyMoon、あなた子孫なの?」と尋ねてきた。

「そうです」と、答えた。

 

一行が杉並木に差し掛かった頃、小雨がぱらついてきた。隊長さんが、私に、

「日光防火の役を初めて授かった千人同心を、雨が、温かく迎えてくれたそうです」同じように私たちを、

雨が、迎えてくれていた。その雨の杉並木を歩いていると、外からの活気を感じるようになった。

同じ班の女の子が「私、なんだか、とってもうれしい!」。そして、杉並木を通り抜けると、日光市の皆さんが、

拍手と歓声で迎えてくれた。一行はまず、淨光寺に向かった。ここは、江戸時代、日光往還の途中・滞在中

そして御役目で亡くなった千人同心を供養しているお寺である。「あなたが代表で献花して下さい」と

隊長さんから花束を渡され、私が全員を代表して献花致しました。その後、市役所に向かった。

日光市民の拍手と歓声は止むことがなかった。日光市役所でメダルの授与があり、ついにやってきた、

と、充実感に浸っていたところに、マスコミが押し寄せてきた。

「あなたが、歩いたたった一人の子孫なのですね!!」私は、マスコミの質問攻めにあった。

"歩いてよかった!来てよかった!″

 

その日、一行は奥日光に宿をとった。私はその夜、ある夢をみていた。それは、一行に加わっていた

前を歩いている75歳の男性が、いつの間にか、五郎おじいちゃんに変わっていた夢だった。

「あれ、おじいちゃん。脚が悪かったんじゃないの?」、おじいちゃんは、一行から外れて、

歩道橋を上がっていった。「おじいちゃん、そっちじゃないよ!」。五郎おじいちゃんは私を見て

いつもの笑顔で微笑んでいた。それは、なんともいえない笑顔だった。でも微笑みを残し、歩道橋から

消えてしまった。翌日、五郎おじいちゃんが亡くなったという知らせを受け取った。

きっと、五郎おじいちゃんは、私を祝福に来て、報告しに行ってくれたんだ。

 

八王子に戻り、23日の5大紙に、この日光往還が大きく掲載された。そこには、自分の名前が載っていた。

その自分の名前を見た時、日光へ向かう前、自分は取るに足りない、生きている価値のない人間だと、

毎日を過ごしていたけれど、そんなことはない、自分の存在というものをしっかり感じ取った。

でも、初日、日高カントリークラブの脇で、千人同心が冷風をかけてくれなかったら、日光まで

たどり着くことはできなかった。もしかして、自分の人生はあの時点で終了していたかもしれないのだ。

この日光往還以来、私は、人生を自らの手で消滅させようなどと思ったことは一度もない。

 

人生は自己との戦いである。それは孤独な戦いだ。でも、負けそうに、倒れそうになることがあっても、

"しっかりしろ″と冷風をかけ、励まし、共に歩いてくれる存在が必ずあるということに気付いてほしい。

 

あらためて、この日光往還を企画してくれた八王子青年会議所に心からの感謝の意を表明したい。

 

LadyMoon20歳、満21歳の夏の出来事だった。