歯医者復活
幕末、激動のJAPAN、知られざる千人同心のヒーローが、歴史の舞台に姿を現わした。
その同心の名は、新藤左右助。
新藤左右助と彰義隊
〜八王子千人同心旧交会誌より〜
慶応三年十月、徳川慶喜は、大政を奉還し恭順の意を表したが、朝廷は慶喜の官位と、
全所領の返還を要求した。この過酷な処置は、幕臣の怒りを買ったことはいうまでもない。
慶応四年三月六日、甲陽鎮撫隊を破った東山道軍は、八王子に到着、千人町は新政府軍に
引き渡された。
石坂義礼が自害した翌日夜(閏四月十一日)彰義隊臥竜隊隊長・間宮金八郎が数百人の脱走人と
ともに、八王子に現れ、五つの寺に泊り込み千人隊に彰義隊への参加を呼びかけた。
彼らは宿場の入口に官軍が立てた「天朝御領」の立て札を引き倒し、宿の東西に、門を設けて、
西国の武士とみれば刀を取り上げ髪を切り、一般の通行人まで厳しく取り調べた。
�爐發靴杼陝蹐蓮△海隆屬了�情を、「十一、二日の頃、江戸の山王にこもりいたる脱走人の頭まみやと
いふ人、八王子にゆき、千人同心にかけあひにおよびしが千人の内より、百人の精兵をえらみいだして
さしあげ申しべし何時にても、おんみかた申べきなりとありしかば、官軍にしたがひしつみをゆるして
かへりとぞ、十五、六日のことなるべし」
そして
「千人隊の内われにて何となく騒がし」とも記している。隊員が決定すると、千人隊の鉄砲五十挺に
二十両が差し出された。これを知った新政府軍は、尾州兵四十人を日野まで派遣し、
戦争かと思われたが、徳川慶頼のとりなしで、和議が成立した。
千人隊士と旧幕府歩兵など三百人の臥竜隊員が御霊屋警備について間もない五月十五日払暁、
激しい風雨の中で戦闘は開始された。「黒門が敗れ、大除地が敗れたので、彰義隊は戦死。
サア志ある者は切腹。再挙を計るものは逃亡。」(幕末秘話)
間宮金八郎は戦死、新藤左右助らは、飯能に逃れて、新政府軍を迎え討った。やがて、榎本武楊から
指令が伝えられると、左右助は密かに家に立ち寄り、品川へ行くと妻に伝えて立ち去った。この時、
左右助は二十七歳、妻コトは二十三歳。三か月の身重であった。品川で、美加保丸に乗船して
蝦夷へ向かったが、途中、嵐に巻き込まれ、犬吠が崎で遭難、消息をたつ。
・・・・・その後
明治十一年八月、左右助の弔魂碑が大義寺に建立された。
新藤左右助は、本当に遭難してしまったのだろうか? 源義経のように、大陸に渡り
ジンギスカンとなったのではないか?
先日、偶然、ケータイショップで、持ち歩ける八王子本に
新藤左右助を発見した!!
やはり、左右助は健在だった。
彼は、八王子に戻り、歯科医院を開業していたのだった。