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地下鉄Fライン34丁目ハロルドスクエアで降り、ペンステーションまで歩いた。

 

コソボ危機のあった1999年3月、ワシントンDCから真夜中のアムトラックでやってきた。

ペンステーションに降り立ったのは、明け方の2時だった。明け方でも、ペンステーション内には、

人がいて、イエローキャブにのり、EastVillageのアパートに向かった。

 

ペンステーションは、アムトラックばかりでなく、地下鉄及び

ロングアイランドレールロードの駅でもある。

ワーデンクリフタワーに行こうとしたのだ。ここに行くには、ロングアイランド鉄道で、

ペンステーションからPort Jefferson(ポートジェファーソン)迄乗る。

終着駅ではあるが、何度か乗り換えないと到達できない。

時刻表及び運賃は、MTAinfoのサイトに掲載されている。時刻表のTはtransfer(乗り換え)の意。

チケットは写真の窓口で購入し、右側の電光掲示板に自分の乗車する列車のプラットホームナンバーが

表示されるので、その指示に従い乗車する。約2時間ほどで、港町ポートジェファーソンに着く。

ここから、5Aバスに乗り、Shoreham(ショーハム)バス停で下車する。

16マイル、乗車時間30分。5Aは、1時間に1本運行している。

バスの時刻表は、Suffolk Country Government Community→ Suffolk Transitで、

チェック。ショーハムバス停は、ランダルストリートにあり、

元来た道を少々戻ったルート25A上に、ワーデンクリフ跡地は存在する。

 

ここまで、調べたのに、ハリケーンサンディに、阻まれてしまった。ロングアイランド鉄道は、

地下鉄以上の打撃を被り、窓口で尋ねたところ、ポートジェファーソン迄は行くことができず、

途中折り返し運転を行っている。

 

幻のワーデンクリフタワーよ。

ワーデンクリフタワーは、今日あるような、インターネット、Eメール、

ブロードバンド、ラジオ&テレビ局

等々のあらゆる情報サービスを包括し提供する世界情報システム塔である。

1900年1月半ば、コロラドからニューヨークに戻ったテスラは、

宇宙からのメッセージに応えようと全力を傾けてくれた。

まず、取りかかったのが、この世界情報伝達システムだった。

しかし、1901年12月、マルコーニが初めてコーンウォール(イングランド最西端の州)から

大西洋を横断し、ニューファンドランド(カナダ東端の州)に信号を送ることに成功したという

ニュースが届いた。テスラは「マルコーニはいいやつだ。やらせておけ、私の特許を17も使っている」

・・・だったが、お金のかかりすぎるワーデンクリフタワーは、これ以上、無益と判断したのか、

スポンサーのJ・P・モルガンによって破壊された。その後、

無線の真の産みの親は、ニコラ・テスラであると最高裁が判決を下したのは、

テスラ死後のことであった。1901年から3年にかけて、建設されたワーデンクリフタワー、

現在、その跡地のみ、保存されている。

 

定番ニューヨーク観光では、満足しないという方々は、ロングアイランドに行ってみるといいだろう。

Pたちとよく来たビーチ・サンカンメドウも、ワーデンクリフタワーに近い、ルート25A上にあるし、

オイスターベイには、セオドアルーズベルト邸、セレブの高級避暑地パンプトンズ、

シネコックインディアンの居留地、ワイナリーも点在していて、見どころはたくさんある。

ニューヨーク近郊の光と影    ニューヨーク発週末の旅

 

34丁目に戻ろう。ペンステーションに隣接するマジソンスクエアガーデンで、

電気パファーマンスを行ったテスラ、正面は、ホテル・ペンシルヴェニア だ。

映画�爛哀譽鵐潺蕁縞�語″に登場し、テスラはこのホテルにも、滞在していたことがある。

ニューヨーカーホテルに向かった。

取引先のオフィスがあり、何度か訪問したことは、すでにお話した。

フロントは、当時と変わらず、にぎわっていた。エレベーターにのり、33階を押した。

テスラは、スウィートRoom3327で、最後の10年(1933年から1943年)を過ごしたのだった。

33階は最上階だったそうだが、現在ニューヨーカーホテルの最上階は40階である。

33階で降りた。この階の部屋はスウィートではなく、すべて普通のホテルルームのようだ。

 

イーストハウストンストリートに立った。ここは、テスラのラボがあったところだ。

住所は46EastHoustonだが、ニューヨーカー時代の詳しいMAPをしまいこんでしまい、

この辺りだろうという場所、Between マルベリーSt. & モットーSt.に立ってみた。

テスラがここで行った研究・地震解消法は テスラbyマーガレツト・チエニー(P178)をご覧ください。

 

ニコラ・テスラが、アメリカに移民してきたのは、1884年、フランスがアメリカに

自由の女神像を贈呈した年だった。マンハッタンの移民局に上陸した時、

PearlStreetには、エジソンの発電所があって、ウォール街とイーストリバー地区に

直流電流を供給していた。エジソンと初めて会ったときのことを、

テスラはこのように、話している。

 

″この瞬間を船上で何度も練習した。エジソンの名声は深く心に刻みこまれていた。

正式な教育は、受けたことがないのに、役立つ製品を何百と発明した男が目の前にいる。″

 

エジソンは、テスラに脅威を感じたのかもしれない。交流をいっさい認めず、さんざん嫌がらせをした。

でも、テスラは、「エジソンは1ダース以上のノーベル賞に値する」(1915年)

 

テスラコーナーは、ニコラ・テスラゆかりのものが多い場所である。ニコラは、

毎日、ブライアントパークの鳩にえさをあげに行っていたし、

パーク真向かいのエンジニアスクラブでは、

エジソンメダル授与式のあと、パーティーが行われた。

現在、ブライアントパークの真向かいは、日本の紀伊国屋書店になっている。

今回、ゴート島と世界システムを訪ねることができなかった。最後に、

世界システムに関するテスラ名言をお届けしたい。

 

わたしの計画は自然の法則によって遅らされている。世界はまだその準備が整っていない。

あまりに時代を飛び超えているからだ。だが、最後は同じ法則がうまく働き、

勝利の凱歌をあげるだろう。(1919年)

 

帰って、久々にメールボックスをひらいた。ん?

 

ワーデンクリフ・プロジェクト代表のジェーンさんから、私宛にEメールが届いていた。

 

 

 

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