松姫様の物語

 

The story of Princess Matsu 

 

Walkoct4"

Princess Matsu

 

 

Princess Matsu was born in 1561 during the Age of Civil Wars as a daughter of the lord

Takeda Shingen. The lord Shingen had many daughters. There is a record that Matsu was

the most lovely and beloved daughter for the lord in all. After the great lord death, the fief

lost power. In 1582, Princess Matsu left the fief, Yamanashi prefecture with two nieces,

a warrior’s daughter and 20 retainers. Crossing some ridges and going forward animal trails,

the party arrived in Hachioji. Princess Matsu and three little ladies settled themselves in a

tiny Buddhist nunnery. The tiny nunnery was in my ancestor Kuma’s domain. Matsu was 

the beautiful lady. Many warriors proposed marriage. However, Matsu refused all of them

and chose to live as a nun. All her life, Matsu loved the only warrior who died for the civil war.

For the soul, Matsu became a nun. By the way, Don’t be surprised to learn. The man who was

most completely stuck on her is the first Shogun, Tokugawa Ieyasu. Even after Matsu became

a nun, Ieyasu invited Matsu to Edo Castle frequently. However,Matsu never change her mind.

Even the then top authority was beyond the reach. Matsu established Soto Zen Temple,

Shinsyo-in. Matsu engaged in ascetic practices as a nun, though, on the other hand,educated

children in the temple and started the weaving. She died in April 16, 1616. Princess Matsu,

the great achievement is that laid the foundation of textiles in Hachioji-city.

 

数年前、?歴女″という流行語ができた。歴女がいれば、歴男もいる。

その歴男に、「一番好きな、戦国大名のお姫様は誰?」と尋ねれば、間違いなく、

この松姫様をトップに挙げるはずです。美人で清楚で、芯が強く、思いやりがあり、

名門甲斐源氏・武田家の姫君。20世紀の吉永小百合でもあり、

当時、どれほど多くの男性が、心を焦がしたことでございましょうか。

 

 

Shinsyo-in

Matsu2

松姫様は、武田信玄公六女として、あの川中島合戦のさなか、

永禄四年(1561年)9月に誕生されました。母は、甲州一の美女と

誉れ高い側室の油川夫人。NHK大河ドラマ武田信玄。川中島に出陣する

中井貴一演じる信玄公が、側室の里美に「恵理の子を頼む」と言う場面が

あります。軍師・山本勘助戦死。多くの命が失われた激戦川中島のさなか、

新しい命が誕生します。恵理(油川夫人)は、可愛い女の子を出産。

その女の子が松姫様にございます。永禄八年五月吉日、父の信玄公が

富士浅間神社に松姫様の病気平癒祈願をしています。この位の齢の子は、

ありとあらゆる病気をします。長女の安産祈願のお札はありますが、他の

姫君の記録は見あたらないことから、きっと、一番可愛がったお姫様

なのでしょう。そして、松姫様は、七歳の時、織田信長の嫡男で11歳の

信忠と婚約致します。しかしその後、両家の関係は気まずくなり、

元亀二年(1571年)4月頃、婚約解消となってしまいます。

天正元年、武田信玄公は天下統一を目前にして、上洛の途中、病死。

松姫様は、母が同じ兄・仁科五郎盛信の高遠城に移られます。

 

 

ところで以前より、松姫様とくま大名家は、関わりがあったように思えて

なりませんでした。八王子市上野町の信松院は尼となった松姫様が開基

された寺院で松姫様のお墓や銅像があります。わたくし、松姫様に近づく

のが怖いのです。畏敬の念というのかわかりません。なんと申しましょう、

強く感じるものがあるのです。信松院の前を通ると、人の気配を感じます。

振り向くと、上の写真です。被り物をとられ、お顔を拝見するのが怖い。

毎月16日は、宝物殿に入り、松姫様にお目にかかることができます。

わたくしも、入ったことがございますが、土下座してしまいました。でも、

この謎が、429年の時を越えて解けた気が致します。

天正10年(1582年)、この年は、いろいろな出来事があった年です。

1月末、木曽儀昌謀反。2月3日、織田信長が総攻撃を指令。織田の

軍勢が攻めてくるという知らせに松姫様は、兄・仁科五郎の四歳になる

督姫を連れて、高遠から甲府に戻り、韮崎の新府城に立ち寄られ、

武田勝頼の四歳になる貞姫、人質になっていた小山田信茂の同じく

四歳になる香具姫(香具姫に関して合流地はさだかではありません)、

 

 

 

幼い3人の姫を伴います。3月2日、高遠城落城。3月11日、武田勝頼、天目山にて自害。

護衛の武士に護られながら、松姫様一行は、山梨市・海島寺、塩山・向岳寺に滞在された後、

笹子峠を越え初狩に、そして3月25日、上野原に到着します。ここで、どちらに向かおうかと

いうことになり、北条家とは既に気まずくなっていた為、相模には向かえない。武州・八王子に、

方向をとられたのでございます。和田・案下峠を越えて、27日に上案下着。ここで御一行は、

同じ武田の落武者で、のちに八王子千人同心となる渡邉家に滞留された、そのすぐ後です。

松姫様16名様御一行は、我がくま大名家にお見えになったのでございます。

その時、くま大名は、どんな気持ちだったのでしょう。主君の御息女を目の前にして、

感無量だったに違いありません。上の御姿で、幾多の苦難の末、くま大名の前に姿を

お見せになられたのですね。429年の時を超えて、わたくしも今、感無量にございます。

くま大名家に御滞留の間、至らないことは、ございませんでしたでしょうか?

 

  ついに、柴辻俊六先生と遭遇。この謎について尋ねてみたところ、渡邉家とくま大名家は、

  北島藤次郎先生の著書にあるのだそうだ。 ボケたふりをしていた柴辻先生ではあったが、

 くま大名家をしっかりと刻みつけて下さったようです。  As of Nov, 2014 

 

その後、松姫様と3人の姫は、金照庵に落ち着かれます。この小庵は、現在、

八王子市立恩方第二小学校の敷地内にあり、小学校は、もとは、?くまだんご″

という名の寺子屋でした。その名からわかるように、創立者は、くま大名にございます。

 

やがて、松姫様は、ほど近くにある曹洞宗の心源院を訪ねられて、勅賜仏国普照禅師のもと、

剃髪されます。法名を信松禅尼と称され、御年二十二歳でありました。そして、八王子城落城の

天正18年(1590年)、上野原宿・御所水の里へ移り住まわれます。その、御自身の庵を

結ばれた所が、現在、八王子市台町の信松院でございます。 草庵での松姫様は、

仏道精進の日々ではありましたが、侍女たちと共に、養蚕・機織り・染物・寺子屋を営みます。

近所の子供たちには、手習いを教えられ、父・武田信玄公に、最も可愛がられた御息女は、

まさに仕事師でありました。糸を紬ぎ、絹を織れたりして、織物の技を里人に伝えていくのです。

この時、松姫様が伝えられた織物が、後世八王子織物へと発展していきます。

 

1603年頃、武田信玄公次女であり、松姫様の姉である姉見性院(穴山信君室)が

金照庵に身を寄せます。

 武田信玄公 子女

長女 北条 氏政 室 (1536年生・歿年五十四才)

次女 穴山梅雪  室 (1542年生・歿年八十才)

三女 真理姫 木曽義昌 室 (1549年生・歿年九十八才)

四女 松姫 織田信忠と婚約 (1561年生・歿年五十六才)

五女 菊姫 上杉景勝 室 (1563年生・歿年四十二才)

 

姉見性院は、武田家再興に大変な熱意を燃やされた方で、母上は正室の三条夫人です。

二代将軍徳川秀忠の愛妾・お静の方(北条浪人の娘)が産んだ幸松丸を連れてこられたそうに

ございます。正妻お江のジェラシーを避けて、身を寄せてきたのです。松姫様は、この男の子を

養育され、のちにこの子は、高遠の領主・保科正光(父は仁科五郎盛信の重臣)に養子として

入り、会津松平家の始祖となる保科正之です。ところで、松姫様が、甲州から連れてこられ

養育された3人の姫はその後、どうなったのでしょうか?武田勝頼の貞姫は、正室として旗本

宮原家に嫁ぎ、跡継ぎを産みます。小山田信茂の香具姫は、41歳で平藩内藤家に側室で入り、

42歳で男の子を出産(???)、正室には子供がなく、その男の子が内藤家を継承しました。

そして、仁科五郎の督姫は、生まれつき体が弱く、尼となり29歳で死去します。玉田院の名で

八王子市内の極楽寺にお墓がございます。

 

松姫様と元婚約者の織田信忠は、会ったことはないものの、文を取り交わしておりました。

本能寺で、父・信長と共に逝ってしまった信忠。生涯、正室をもつことなく、妻は松姫様、

ただひとりだったのです。松姫様に恋い焦がれた男性は、星の数以上おり、その筆頭に

挙げられるのが徳川家康です。記録には、「たびたび迎えをよこしていた」。側室にしようと

やっきになっておられたのです。しかし、尼としての道を選んだ松姫様は、群がる男性の

求愛を断固拒否し続けたのでした。最高権力者将軍でさえも手の届かない存在、

永遠のマドンナ、それが、松姫様なのです。

 

古い表現かもしれませんが、乙女座の女性は?職業婦人″に、12星座中最も適している

そうですね。専業主婦の生活だけには耐えられないようで、職業をもってこそ、光輝く女性。

松姫様は、乙女座のお生まれです。それゆえ、尼という職業を、自ら、選択されたのだと

思っております。

 

土地の人々から大変慕われ、武田家旧臣の精神の支えとなって下さった松姫様ですが

神様のもとに召される時が、とうとう、やってきてしまいます。元和二年(1616年)四月十六日。

戦国の世を力強く生き抜かれた松姫様は、眠るがごとく他界されました。御年五十六歳でした。

そして、あとを追うかのように、翌十七日、徳川家康逝去。

 

多くの女性や子供たちが犠牲となった戦国時代において、人を守ること、育てることを貫いた

信松尼の生涯には、多くの苦難を経て生き抜いた本当の強さを感じます。 <中略>

正之が高遠に行った時(1618年)には、もう信松尼は亡くなっていましたが、高遠の落城と

兄・仁科盛信の戦死から始まった信松尼の旅は、最後に守った子供を城主として高遠に返す

ことで、完結したのではないでしょうか。 〜故・野口正久先生より〜

 

加えて、松姫様の功績は、八王子市に、地場産業・織物業の礎を築いたことでございます。

  

柴辻俊六先生。野口正久先生。信松院の史料を参考にさせて頂きました。

松姫様、武田信玄公以外の方は、尊称を略させていただきました。

 

新緑や紅葉の美しい季節、恩方第二小学校への途中、関場にて、

読むのが少々困難な碑を見つけることでございましょう。

 

The monument

 

甲斐の山々憂愁に静み天下布武の叫喚は風林火山の家風を焼き

甲源の嫡流挽歌哀し天正十年壬年四月武田信玄第六女松姫ら

勝沼開桃寺を脱し甲斐路の山谷を武州案下路の山険を踏み分け

和田峠を下り高留金昇庵に仮宿の夢を結ぶ・・・・

松姫の生涯は戦國動乱の中に終始し政略婚の辛酸に殉し清純の

操志を貫き通すその清風の香しき清節は武甲の天地にこたます

婦道の鑑といふへし

 

八王子の郷土史家・佐藤孝太郎氏の名文である。 

   

昭和五十二年四月十六日  八王子市長 後藤聡一 額

佐藤孝太郎  撰      中村雄山 書

 

bdgrape7NewtonChardonnay

天下は武田の許にあり、米国ホワイトハウス御用達ニュートンのワイン

 

 

Mt.Fujiの見えるお宿 

 

 

CravatDay 

The industry of hachioji-city is necktie as well as Croatia.

Love to the worrior altered.

 

 

 

 

 

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