秋のGospić・(ゴスピチ)
写真提供:クロアチア政府観光局
三民族の危機感
ムスリム人とクロアチア人の危機感は、もし、スロヴェニア、クロアチアが
旧ユーゴ連邦から離脱するならば、残留した共和国の人口の合計における
セルビア人の相対的な割合は上昇する。
両共和国離脱前の旧ユーゴ連邦最大の民族はセルビア人であったが、
それでも国民全体を占める割合は40%程度であった。しかし、
離脱後は、セルビア人が半数を占めることになる。
このことは、ムスリム人とクロアチア人が是非とも避けたいことであった。
セルビア人も、逆のケースでの危機感をもっていた。
離脱前の旧ユーゴ連邦では、セルビア人は相対的とはいえ、最大の民族であり、
少数民族になることはなかった。しかしもし、ボスニアが独立し、
ムスリム人とクロアチア人が協力関係をもてば、セルビア人は少数派に転落し周縁化される。
クロアチアのセルビア人にある「少数民族化」への恐怖である。更に、
クロアチアのクロアチア人とセルビア人の民族間の緊張がボスニアのそれに直接影響する。
クロアチア、ボスニアのセルビア人とクロアチア人は、共和国間の境界によって隔てられているが、
両共和国の各民族の居住地域は、かなりの部分で隣り合っている。
隣国クロアチアでの民族間関係の悪化は、
即座にボスニアの民族間関係に伝染していくのだ。
しかし、クロアチアの場合と異なり、ボスニアにおいては、
セルビア人もクロアチア人も満足させる選択肢が存在していた。
"セルビアとクロアチアのボスニア分割″だ。これについて、無論、
イゼトベコヴィッチは、反対だった。
ユーゴとボスニアの将来像をどのように整合させるかという議論は、
スロヴェニア、クロアチアがユーゴからの離脱志向を強めるにつれて、
ボスニアでも高まっていく。
既に1991年1月には、セルビアがボスニアの主権を承認しないことに対し、
民主行動党とボスニア・クロアチア民主同盟が不満を明らかにし、
他方でボスニア・セルビア民主党は、ボスニアの主権獲得に警告を発していた。
1991年1月30日、初めてのボスニア議会が臨時に開会され、
その場で、ぺリヴァン首相は
ボスニアの不可分性と経済・政治的主権を前提として施政方針演説を行ったが、
クライシュニク議長は、民主行動党が主権宣言を発議することに強く反発し、
イゼトベコヴィッチ大統領にユーゴサミットでの立場の説明を求めた。
又、ボスニア・セルビア民主党党首のカラジッチは、ボスニアの主権は
既存の旧ユーゴ連邦の枠内である旨を述べており、
更に、ボスニア・セルビア民主党は、
スロヴェニア、クロアチアの独立への動きに対して、
強硬な対抗策をとらない連邦首相マルコヴィッチは、クロアチアの「操り人形」である
と批判。そして、ボスニア・クロアチア民主同盟のクリュイッチは、
クロアチアの独立志向で、ボスニアに浸透している反クロアチア感情に反発していた。
イゼトベコヴィッチは、旧ユーゴ連邦からの離脱を前提にこそしてはいないが、
平和よりも主権を優先するというもので、これは、ボスニア内戦終了時迄
変化することはなかった。そして、
ボスニア・セルビア民主党の背後にミロシェヴィッチが存在していると非難したが、
ボスニア・セルビア民主党側は、大セルビアを望まないと、強く応酬した。
こうした中、3月1日から始まるボスニア議会開会の2週間前に、
議会議長クライシュニクの主導で、議題に関する打合せが行われた。
その時、民主行動党が
「ボスニアの主権故に平和を犠牲にすることがあるかもしれないが、
ボスニアにおける平和の為に主権的なボスニアを犠牲にすることはない」
というメッセージを明らかにしていた。そして、クリュイッチもボスニアの
主権・不可分性を支持。これに対し、ボスニア・セルビア民主党のプラヴシッチと
コリェヴィッチは、ボスニアの将来を論ずる際、イゼトベコヴィッチは、
一方に偏していて、仲介者として不適格であると主張する。なお、カラジッチは、
ムスリム人の民主行動党とボスニア・クロアチア民主同盟の立場が一致する
のに対して、ユーゴの連邦制維持を支持したが、ボスニア・セルビア民主党は
それとは異なると強調。
ユーゴ全体の分権化に加えて、ボスニアの分権化という争点も存在した。
"ボスニアの不可分性を主張する限り、ボスニアは集権化された存在でなくてはならない″
というのが民主行動党、イゼトベコヴィッチの主張である。特に、
セルビア人、クロアチア人の本国が隣接していて、意図するしないは別として、
その本国から、ボスニア内の両民族に対して政治的磁力が作用しているとすれば、
ボスニアの不可分性を主張にとって、ボスニアに強力な中央が存在していることが、
一層肝要であった。イゼトベコヴィッチは6人サミットやミロシェヴィッチ、
トゥジマンとのアドリア海沿岸スプリトにおける3者会談においても、
ボスニアの不可分性を強調しているし、民主行動党も、
ボスニアが主権を有し、単一的で不可分の国家であることを主張する。
これに対し、ボスニア・セルビア民主党は、分権化を求める。
早くも4月26日に、ボスニア北西部の14自治体から72人の代表が、
バニャルカに集い、ボスニア・クライナ自治体同盟を結成する。
ボスニア・セルビア民主党の主張の論理的帰結は、セルビア人地域に自治を付与せよ
という意味で、ボスニアを民族的に3分割する?地域化″、あるいは、
さらに小さく5つのカントン(小さな州)に分けるカントン化だった。
カラジッチは、イゼトベコヴィッチとグリゴロフ(マケドニア大統領)が発表した
ユーゴの国家連合化に関する網領も、ボスニアのセルビア人の利害に対応していないと
厳しく非難した。
一方で、当時のボスニア・クロアチア民主同盟は、
主権・単一・不可分のボスニアを主張して「網領」を支持していた。
しかしその後、ボスニア・セルビア民主党と同じく、ボスニアの分権化を求めていく。
ボスニア・セルビア民主党の視点から、ユーゴの集権−分権、ボスニアの集権−分権
という二つの争点を見れば、クロアチア、ボスニア両地域のセルビア人の関係強化
さらに、統合の動きがあるのは当然だった。6月24日には、クロアチアの
クライナ・セルビア人自治区首相バビッチ、同内相マルティッチと、
ボスニア・クライナ自治体同盟議長クプレシャニン、同執行委員会グラホヴァツが、
バニャルカで会談し、両者の統一を見据えて、
「ボスニア・クライナとクニン・クライナの経済・文化情報協力に関する協定」
が結ばれた。勿論、
セルビア人地域統一の大セルビア構想が根底にあったことはいうまでもない。
クロアチアにおいて、クロアチア警察隊とセルビア人武装部隊の衝突が頻発し、
ユーゴ維持を目的とした6人サミットの話し合いが進展しない中、
ボスニアの民族政党間の関係がギクシャクし始める。
特に、民主行動党とボスニア・セルビア民主党との間で、顕著だった。
民主行動党幹部のアヤノヴィッチは、ボスニア・セルビア民主党が、ボスニアの国家連合化、
さらに、大セルビア建設に向けて、ボスニアを危機に陥らせていると強く批判。また、
カラジッチに対して、セルビア急進党党首シェシェリとの接触を追求した。
しかし、ボスニア・セルビア民主党の主張によると、民族主義を利用しているのは、
民主行動党であって、ボスニア・セルビア民主党幹部のカディッチによれば、
民族主義のパワーを用いることは、ボスニアの終わりの始まりであった。
ボスニア・セルビア民主党は、「反セルビアキャンペーン」に反発し、
連邦幹部会議長選出の際、メスィッチに投票した。そして、
ボスニア選出の連邦幹部会会員ホギチェヴィッチにも、非難の矛先を向けていく。
その一方で、ボスニア・セルビア民主党選出の情報相オストイッチに対する
スキャンダルの追及をやめない限り、審議をポイコットすると
最後通牒を突きつけたのであった。
非民族政党の社会民主党やボスニア社会主義民主党、
多民族共存を主張するムスリム・ボスニア人組織は、
民族政治を批判するが、ボスニアの政治情勢はさらに、
民族主義化していくのだった。
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