Palijte sveta vatra u Sarajevo, opet i zauvijek

 

サラエボに 聖なる火を灯して  再び そして 永遠に・・・

 

 

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By LadyMoon

 

 

 

ボスニアは、民族構成の点で、他の共和国と際立って異なる特徴があった。

クロアチアには、クロアチア人。セルビアにはセルビア人というように、

絶対的多数派民族が存在していなかった。1991年の国勢調査の結果、

ボスニアの住民に占める割合は、ムスリム人42.7%、セルビア人31.3%、

クロアチア人17.3%である。この人口構成から、壮絶な内戦へと発展していった。

そして、民族浄化という酷いことも起きてしまったのである。

 

1990年11月、ボスニア議会選挙が行われた。どの政党も単独では

絶対多数の議席を獲得できなかった。ボスニア議会選挙に臨んだ主要な政党には、

民族政党がある。ボスニアには民族政党の結成を禁じる法律があったが、

1990年6月12日のボスニア憲法裁判所の判決で、違憲とされた。

議会が政党資格を含む選挙制度を整備したのは、7月末から8月にかけてであったが、

それより前から民族政党は結成されていた。

 

ムスリム人の政党は、民主行動党。公式には、1990年5月に結成されており、

党首には、イゼトベゴヴィッチが、選出された。しかし、イスラム教を重視する

イゼトベゴヴィッチとよりリベラルな路線を志向する副党首ズルフィカルパシッチが対立し、

ズルフィカルパシッチは幹部のフィリポヴィッチらと共に選挙直前に離党。そして、

ムスリム・ボスニア人組織を結成する。民主行動党網領第一条は、次のようにいっている。

?民主行動党は、ムスリム人の文化・歴史的サークルに属するユーゴ市民、そして、

同じく本党の網領と目的を受け入れたユーゴの他の市民による政治的同盟である″

 

セルビア人は、1990年6月に、サラエボで、ボスニア・セルビア民主党を結成する。

党首(支部長)には、精神科医で詩人のカラジッチが就任。同様に、1990年夏、

クロアチア・セルビア民主党の地方支部が各地で結成される。

クロアチア独立に伴ってボスニア・セルビア民主党は、支部から昇格し、

クロアチア・セルビア民主党を凌ぐ勢力をもつようになっていくが、

両党の友好関係は、ユーゴ内戦期間中を通じて維持された。

 

クロアチア人は、8月に、クロアチア民主同盟を結成(ボスニア・クロアチア民主同盟と同じ)。

ボスニア・セルビア民主党の場合と異なり、クロアチア、ボスニアの両クロアチア民主同盟

の関係は、ユーゴ内戦期間を通じて最後まで、クロアチアが主、ボスニアが従であった。

党首には、9月の臨時党大会で、ジャーナリスト出身のクリュイッチが選出された。

 

ところで、主要3民族すべての人々が、各民族政党の下に結集したわけではない。

特定の民族に基盤を置かない非民族的な主要政党として、左翼政党の、

  1.ボスニア共産党・社会民主党  2.ユーゴ改革勢力同盟 があった。

1は、ボスニア共産党の後継政党であり、党首には、ムスリム人政治家のドゥラコヴィッチ

が就いた。2は、連邦首相マルコヴィッチを支持するため、新たな多民族ユーゴを目指して

全国規模で1990年8月に結成されたものだ。ボスニア支部長は、サラエボ大学学長の

ケチマノヴィッチ。しかし、有力な非民族政党である両党間の路線の相違は不明確であった。

 

ボスニアの民衆は、むしろ民族政党に懸念を抱いていたようである。クロアチアの

"ダナス誌″が、ボスニアの三大都市であるサラエボ・モスタル・バニャルカで

1990年5月9日から11日に行ったアンケート調査では、

民族政党を禁ずる規定が正しいと考えている人の割合が、サラエボ72%、

モスタル66%、バニャルカ81%と多数を占めていた。そして、

ボスニアの将来を連邦制のユーゴに求める人々も、サラエボ86%、モスタル83%、

バニャルカ91%と圧倒的であった。

 

シグマ社による8月末の人気調査では、ボスニア共産党・社会民主党21.17%、

ユーゴ改革勢力同盟15.33%に対して、民族政党は、民主行動党7.17%、

ボスニア・クロアチア民主同盟4.5%、ボスニア・セルビア民主党3.17%と

大きく遅れをとり、ほぼ同時期、クロアチア日刊紙?ヴィエスニック″の調査では、

ボスニア共産党・社会民主党19.8%、ユーゴ改革勢力同盟16.3%、民主行動党18.8%、

ボスニア・クロアチア民主同盟4.0%、ボスニア・セルビア民主党4.0%であったが、

有権者の3分の1以上が未定、または、無回答であった。

 

ボスニアの日刊紙"ヴェチェルニェ・ノヴィネ″だけが、これらの調査とは全く異なって、

ムスリム人の民主行動党が、過半数の票数を獲得する可能性を予想していた。

 

1990年11月18日の選挙の結果、民族政党の大勝、非民族政党の惨敗だった。

 

選挙戦終盤に、各民族政党の選挙キャンペーンで繰り広げられる民族主義的言辞によって

煽りたてられた熱狂に呑みこまれてしまったのかもしれない。民族的言説に嫌気のさした

有権者が棄権したこともあるかもしれない。あるいは、1981年の国勢調査の結果における

民族構成と投票結果の民族構成との差がプラスマイナス15%以内に限って選挙を有効とする

選挙規定も有権者に民族的アイデンティティを再確認させたのかもしれない。主要5政党の

選挙網領においてボスニアの将来に関しては、いずれも、統一された旧ユーゴ連邦での

発展が謳われているところで、顕著な差が生ぜず、各政党の民族的アイデンティティが

自ら強調されてしまったのかもしれない。

 

選挙の結果は、定数240議席のうち、民主行動党86議席、

ボスニア・セルビア民主党71議席、ボスニア・クロアチア民主同盟45議席と、

主要民族3政党が、議席の8割以上を占めた。これに対して非民族政党では、

ボスニア共産党・社会民主党19議席、ユーゴ改革勢力同盟13議席であった。

 

選挙後のボスニアの政治は、3民族政党の連立政権によって運営されることになる。

 

議会選挙と同時に実施された定数7のボスニア幹部会選挙では、各民族別の選挙区制

(ムスリム人、セルビア人、クロアチア人はそれぞれ定数2。その他に定数1)が

採用されていた。ムスリム人選挙区では、民主行動党のアグディッチとイゼトベゴヴィッチ。

セルビア人選挙区では、ボスニア・セルビア民主党のプラヴシッチとコリェヴィッチ。

クロアチア人選挙区では、ボスニア・クロアチア民主同盟のクリュイッチとボラスが選出された。

そしてその他の選挙区では、ユーゴスラビア人の資格で、民主行動党のガニッチが当選した。

大統領にあたる幹部会議長には、最多得票者のアブディッチに代って

第二位のイゼトベゴヴィッチが就任することになった。

 

幹部会についてこそ、このように、3民族間の平等が法令によって明文化されていたが、

民族間のパワーシェアリング(権力分掌)を定めた明示的な規定はなかった。にもかかわらず、

3民族政党は、選挙前から、重要事項のうちで特に民族に関する事項については、

コンセンサス(全会一致)方式による意志決定を選択しており、協力関係にあったのだ。

 

パワーシェアリングの好例が、ムスリム人のイゼトベゴヴィッチ大統領、

セルビア人のクライシュニク議会議長、クロアチア人のペリヴァン首相という

トップポストの分掌だった。しかし、中央レベルでこそ、

パワーシェアリングの原理が尊重されていたが、地方では、

最大民族を代表する政党による多数派支配が横行していた。

 

中央では順調に見え、どの民族も排除しない3民族連立政権が完全に破綻するのは、

1年後のことであった。

 

 

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写真提供:クロアチア政府観光局

 

ユーゴスラヴィア現代史

 

 

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