
Zagreb, St. Marco
「第一外国語はロシア語。英語は近年になってから」・・・P
ソ連・東欧諸国における対ユーゴ批判と親ユーゴ批判に対する粛清の中で、しばらくは、
ソ連の批判に答えて、ソ連型社会主義の徹底化と、ソ連外交への同調路線を継続した
ユーゴではあるが、国内外の状況が著しく悪化したことから、その突破口を求め、
なんらかの解決策を打ち出す必要性に迫られた。外交的孤立と経済不況から脱却を図るため、
独自の形態をみつけようと、11949年からソ連型社会主義の理論的見直しに入り、
1949年7月、ギリシャ共産党系ゲリラへの支援を打ち切り、冷戦下でソ連と対立する
ようになった西側との関係改善を図った。そして、コミンフォルムが、ユーゴスラビアの
封鎖を宣告した結果、アメリカから経済援助のみならず、軍事援助をとりつけることに成功した。
それまで、現存社会主義唯一のモデルだったスターリン型社会主義に対抗するものとして
ユーゴ型社会主義モデルが登場する。
1950年6月27日、「国営企業の運営と労働集団によるより高度な経済連合に関わる法律」
を採択して、ユーゴ独自の�猩�働者自主管理社会主義"を生み出すに至った。
労働者自主管理とは、生産に携わる労働集団(労働者評議会)による直接的自主管理を
中核にすえた体制で、考案者はスロべニア人のE・カルデリだ。カルデリは、生産手段の
所有権を労働者自身に与え、労働者は、工場の経営者として�猩�働者評議会"を組織した。
これは、自主管理システムだった。共産党機関の介入と監督とのつり合いのとれた
理論上の分権化と解釈されたのだ。
ソ連型の国家社会主義体制でもなく、西側の資本主義体制でもない。まさに、
ユーゴ独自の資本家抜きの市場経済体制であるとされた。同体制の導入によって、
官僚支配による党・国家体制化ないし国家資本主義化したソ連型社会主義ではない、
真の�爛泪襯�ス・レーニン主義"にのっとったユーゴ独自の社会主義建設に
着手したとして、ユーゴ指導部はソ連の対ユーゴ批判に反論を加えると共に、
同体制の正統化を、国民に向けてアピールするのだった。
ユーゴスラビア共産党は、1952年に改称し、「ユーゴスラビア共産主義同盟」となった。
そして、1953年2月、ギリシャ及びトルコと友好協力条約を締結する。
チトーとフルシチョフ
1953年3月のスターリン没後、ニキータ・フルシチョフが、ソ連共産党のトップに就任する。
フルシチョフは、ユーゴとの関係を正常化し、社会主義陣営の結束を強化することによって、
ソ連国内にいるスターリン派に一撃を加えようと、1955年5月、モロトフらの反対を押し切って
ユーゴに赴いた。そして、ユーゴが主張する社会主義の多様性を認める「ベオグラード宣言」を
発表。これに対し、ソ連が、ユーゴ型社会主義モデルを公式に承認すれば、ユーゴ共産党の威信が、
国内外において高まると判断したチトーが、この頃、共産党消滅論を主張し始めたジラスを党から
追放して、フルシチョフの申し出に答えた為、両国の国家関係は回復されるに至った。
これによってユーゴが、前年8月に、ギリシャ及びトルコと結んだ軍事同盟の意義が
損なわれることになったという点でも、対ユーゴ関係の修復は、ソ連外交に資するものであった。
フルシチョフは、このようにして達成した東欧の非スターリン化と対ユーゴ国家関係の修復
とを携えて、1956年2月のソ連共産党第20回党大会に臨み、そこで、かの有名な
"スターリン批判"をやってのけモロトフらスターリン派に対する勝利を
決定的なものにしたのである。
"スターリン批判"とは、スターリン時代にソ連で何が起きていたのかを報告するもので、
それは恐ろしいものだった。いい質問ですね現代史 (P66をご覧ください)。そして4月に、
コミンフォルムを解散して、6月にチトーをモスクワに迎え、ユーゴ共産党との党関係の
正常化も果たし、一連の非スターリン化政策の正しさとそれを成功裏に導いた彼の権威とを、
国内外に向けてアピールするのだった。
ここまで、難しい言葉や、舌を噛みそうな名前を、いっぱい書いた。
大丈夫だったのでしょうか?"チトーのユーゴスラビア" は、次回が最終回となります。
Dr. Nikola Tesla

ALL画像提供:クロアチア政府観光局