Moja Hrvatska kraljevina
Here is my Croatia Kingdom
Gladala smo utakmicu između Japana i Hrvatske u 1998
Poklon The Necktie Spots for you!
My home town’s traditional local industry is Necktie the same as Croatia.
Kako ste vi? Moji dragi Hrvati u Njùjork. Hvala vi.
i, Moj drag P. Ja znam ti si prijateljski i romantičan.
Sàda živim u Tòkiju. Dalek. Ali, Naša srca nisu daleka.
お元気ですか? わたしの親愛なるニューヨーク在住クロアチア人の皆さん。
感謝してます。そしてP. あなたが、親しみふかく、ロマンティストだって知っているわヨ。
わたし、今、東京に住んでいるの。遠いね。でも、私たちの心は遠くない。
Dear Croatian Americans in New York !!
How are you? Thank you very much for your kindness.
I just live in Tokyo, Japan. It is far. However, our hearts are not far.
わたしがPと出会ったのは、2001年1月。ある寒い日曜日の朝、グッゲンハイム美術館の前で、
ジョギングしていたPとぶつかった。お互いケガはなかったが、悪かったねと言って自宅に
招待された。Pはクロアチア系アメリカ人で、10歳の時、両親・兄そして親戚の数人と共に
アメリカに移住した。この時Pは、新婚の兄夫婦と同じ敷地内に住み、コンピューター関係の
会社に勤務していた。縁とは、おもしろいものだ。これが、きっかけとなり、Pやその家族・
親戚・友人たちを通じ、アメリカ社会そして彼らの母国クロアチアについて知ることになる。
それまで、自分が、クロアチアで知っていることといえば、今から12年前、1998年の
ワールドカップサッカーにおいて、日本が初めて対戦した国ということだけだった。
Dioklecijanova palača
ディオクレティアヌス宮殿
旧ユーゴスラビアに属したこの国に、クロアチア人はいつどこから
やってきたのだろうか?現在のクロアチア領域に最初に現われたのは、
ローマ人であったという。紀元前3世紀末のことだ。ケルト人・
ギリシャ人、そしてイリリア人も同じようにこの地に住んでいた。
ローマ人がこの地域を占領したのは、紀元9年、イリリア人の反乱を
鎮圧してから。ローマ人は、ダルマツィア州に、数多くの建造物・
街道や町を建設した。その当時の遺跡で特に有名なものとして、
イストニア半島のプーラに1世紀に造られた円形闘技場とスプリト
(旧スパラト)のディオクレティアヌス宮殿が挙げられる。
ディオクレティアヌスは、この地に生まれ305年に亡くなったローマ皇帝だ。
476年に西ローマ帝国が崩壊してから、ゲルマン人〜ゴート族〜ケピト族(ゴート族の派)、
ロンバルト族の侵入と通過を経て、ビザンツ帝国管轄下となる。
Sir.Branimir
ブラニミル公
ビザンツ皇帝・ユステイニアヌスは6世紀にダルマツィアの統治権を
回復し、以後沿岸部の都市ザダールが政治的中心となり、ビザンツの
名目的な統治が1102年迄継続。しかし、沿岸部のドウブロヴニク・
ザダール・トロギル・スプリト(現在はクロアチアの都市)そして
コトル(現在はモンテネグロの港)は、ローマン・カソリックと関係が
強く、自治を享受しており、ビザンツの支配権はそう強固なものでは
なかったようだ。ビザンツはアドリア海沿岸南部のドゥラス(現在は
モンテネグロの港)を拠点にしていただけにすぎなかったと
いわれている。
ゲルマンを始めとする様々な民族の大移動が生じたのは、4世紀から10世紀にかけてのことだ。
クロアチア人は7世紀、パンノニア(ハンガリー)方面からクロアチア中部に移動し、
7世紀半頃には、アドリア海沿岸に至り、現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナ西部にも定住する。
そして、同じ南スラブ系のスロヴェニア人、セルビア人も同方面からバルカン西部に移動。
クロアチア人とセルビア人の移住は、7世紀前半、ビザンツがモンゴル系遊牧民族アヴァールの
ダルマツィア支配に対抗するためだったようだ。東欧諸国は、かつて、モンゴルの侵攻があった
ことで知られ、その影響をうけてか、苗字が先で名前が後という国があるし、 一重瞼で
切れ長の目のひとも存在する。
クロアチアの場合、モンゴルは関係ないと彼らはいっているが、おばあちゃんのことを“ババ”
と呼ぶのは、日本と同じだ。
“ババ”の話が出たところで、日本とクロアチアの共通点と相違点について、ご案内したい。
クロアチアの地場産業はネクタイ。 これは、我が東京都八王子市と同じである。 親日家が多く、
Pも日本についてなぜかよく知っている。俳句人口も多い。 他のスラブ民族と同じく男尊女卑
の国でもある。女は "Just Object "だそうだ。相違点は愛国心が強くむきだしにすることだろう。
1998年のワールドカップサッカーにおいて、クロアチアは、初出場ながらも、世界第3位という
快挙を成したのは、知るところである。特に、サッカーで愛国心が露骨に現われるようだ。
「世界一ハンサムなのは、クロアチアの男である。ベッカムは醜い、あーっ醜い。」・ところで
今年のワールドカップサッカーに、クロアチアは出場していないようだ。どうしたことか?
9世紀初頭、フランク王国がモンゴル系のアヴァールを滅ぼし、領土拡大を進め、
パンノニアからダルマツィア北部一帯に支配権を確立し、9世紀後半までその支配が継続する。
そのフランク王国による支配が終わると、ビザンツ帝国が、875年、ジュパというこの地域の
部族単位の共同体を統一する。ダルマツィアの公となったブラニミルは、ビザンツへの対抗上、
ダルマツィアの教会を西方カソリックに帰属させ、その中心をスプリトにおいた。P達によると、
現在でもクロアチアというのは、ザグレブを中心とする内陸部とアドリア海沿岸のダルマツィア
地方に2分しており、両者は文化も性格も異なる。ザグレブは、オーストリア・ハンガリー帝国
の影響を受けクラシック音楽が盛んだ。日本から音楽留学される方々もいる。性格はドイツ系。
アドリア海沿岸のダルマツィアというのは、元々、地理的に近いローマの影響を受け、食べる
ものも性格もイタリア的だといっている。Pと兄そしてその家族・親戚は全員、ダルマツィア
地方の出身者だ。ディズニーの101わんちゃんダルメシアン のふるさとでもある。Pたち
ダルメシアンはクロアチア語でダルマティーナッツという。私がPと観に行った映画の一つ
“マレーナ”。舞台はイタリア沿岸部だが、Pと兄が生まれ育った村と同じ懐かしい光景だそうだ。
A church in Nin
中世クロアチア王国・トミスラヴの戴冠(P28)10世紀迄クロアチアは、
内陸部のパンノニアとアドリア海沿岸の南北にのびるダルマツィアに
分断されたままであった。 しかし、924年に、ニンのジュパン(族長)
であったトミスラヴが、軍隊を組織して、ハンガリー・フランクを破り
パンノニアを征服し、ダルマツィアとの統一を果たす。 翌925年、
トミスラヴはクロアチア王となる。この中世クロアチア王国は、
ダルマツィア沿岸部のビオグラードを中心地として繁栄。特に、
11世紀後半の国王・クレシミルとズヴォニミル統治の時期には、
繁栄が頂点に達する。この王国は、王位継承問題が繰り返されたり、
ビザンツ帝国やヴェネツィアによる攻撃をうけつつも、200年にわたり継続した。1102年、
王位継承問題で内紛が生じたため、ハンガリー王がここの王を兼ねることになった。クロアチアは
内政上の自治権を認められていたものの、これ以降は、ハンガリー王のもとに 置かれることになる。
The scenery of Nin
ニンの風景
ニューヨーク郊外にあるPの自宅に招待されたのは、夕刻だ。
この日は、兄嫁Sの親戚も数人招かれており、食事はPが作った
という。Pはラザーニャが得意だ。Sの親戚たちは、私を見て
「Pretty, Pretty!!」と喜んでいた(Hvala vi (^^♪。バルカン
というところは、歴史的に多様な民族が移動し定着したところ
であるわけだが、Pと兄はギリシャかアラブ人の顔をしており、
Sとその親戚の方々は皆、ブロンドでスラブ系の容貌だ。
クロアチアにも、他の東欧諸国と同じように、吸血鬼に類似するが
楽しいものが存在するという「母国には女の夢魔がいるんだぁ〜」
セルビア人が中世セルビア王国に愛着を抱くように、クロアチア人も近世において、
中世クロアチア王国をアイデンティティーの拠り所にすると聞いたので「そうなの?」
と尋ねたところ、「貴族は嫌い」だという。貴族は農民を奴隷扱いするから。彼らは全員、
農民の出身である。日本には江戸時代、士農工商という身分制度が存在し、農は2番目だった
といったら、「ヨーロッパでは農民は最下位だよ、アメリカでは商がトップだけどね」
・・アメリカ人というのは元々、ヨーロッパの貴族支配社会を嫌い、移民してきた。
農民は貧乏で永久に出世のチャンスなどなく、かわいい子なら領主の目にとまり、
城に呼ばれ、いい暮らしをさせてもらえることがある。
TVドラマ "SHOGUN "を観ていた人がいる。 "SHOGUN "はアメリカでベストセラーとなり、
TVでも高視聴率を記録。視聴率50%を超えていたようだ。このドラマが放映され始めた
ちょうどその頃、日本車がアメリカで売れ始め、日本に興味をもったための高視聴率では
ないかという。Pたちは、この"SHOGUN "によって、初めて、日本のサムライを知るに
至ったのだった。しかし、日本では、映画が紹介されたもののさほどウケず、これを観た
ある日本人男性は「日本への国辱だ」といっていた。
「えー、Lady Moonって、サムライの子孫なの?いーなぁ」。Sは、ニンの出身。
Pのおばさんも、ニンから嫁いできたという。そこで私は、「あなたがただって、
もとは、貴族かもしれないわよ、トミスラヴとの血縁があるかも。証明してみたら?」
「あのトミスラヴと血縁だなんて、ありえないけど。調べてみるか」・・・・・
といった顔は、ほころんでいた。
お金持ちではないけれど、優しくて純朴なひとたち。おいしいワインと料理に囲まれた、
これがわたしのクロアチア王国。
All 画像提供:クロアチア政府観光局
ALL PHOTOS : THE CROATIAN NATIONAL TOURIST
CroatianWine Pのお父様は、アドリア海沿岸の村で、
ワインやオリーブオイルを造っています。
クロアチアのZagorje(ザゴリェ県)で開催される騎士トーナメント、 騎士は皆MiddleAge。
馬上槍試合など、中世さながら。